歌を歌っていたのだと、そう金澤は言った。
香穂子は音楽室の机の上に突っ伏して、ゆっくりと目を閉じる。
それはもう過去の話で、今は歌えないのだと、金澤は言った。
金澤の過去のことを、ほんの少しだけ香穂子は知っている。
『年上のソプラノ歌手と恋に落ちて捨てられた』
ほかでもない、金澤の口から聞いたのだ。その恋を失って、金澤は歌を捨てた。何よりも大事だったはずの音楽を手放した。
それが、どんな意味を持つのか、香穂子はできるだけ考えたくなかった。
金澤をそんなにも夢中にさせた人がいるのだと、それを認めるのが怖かった。
顔を上げて、手を見る。自分のヴァイオリンは、金澤のもとへ届いているだろうか。この想いは通じているだろうか。
「日野?」
突然、考えていた人の声がかかって、香穂子はびくりと身体を揺らしてしまった。
「……先生」
声が驚きにかすれる。
金澤も少しだけ驚いたような顔をして、けれど笑った。
「今日はヴァイオリン、弾かないのか?」
聴かせてくれないのか、と香穂子には聞こえた。
「弾きますよ?」
笑って答えると、金澤はすぐそこにある椅子を引き寄せて座った。
「じゃあ、拝聴させてもらおう」
昔の声なんて知らなくてもいい。今のこの人が、私を見ていてくれるなら。
香穂子はそう思いながら、ヴァイオリンを取り出した。
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2007.12.14‖コルダ:金澤×日野