月森×日野
学内コンクール最下位。普通科2年、日野香穂子。
* * * * *
「———日野、やる気があるのか?」
呆れた声とともに、月森は大きくため息をついた。
ミスばかりを繰り返しているとわかっている香穂子は、ヴァイオリンを下ろして頷いた。
「ごめんね。月森くん、時間割いてくれてるのに…」
思うように指が動かない。月森と同じように弾ければいいのにと、忙しい月森を練習に誘い出したのにこの体たらくだ。香穂子はきゅ、と唇を噛み締める。
「俺のことはいい。そんなふうに余計なことを考えているから、練習に集中できないんだろう」
苛々としたような月森の声に、ヴァイオリンを持つ手に力がこもった。
ストイックに自分の音楽を求めていける月森を、香穂子は尊敬すらしていた。ヴァイオリニストとしては、もう完成形に近いのではないかというほどの技術力。愁いのある曲を得意とする月森の音は、確かにそこにひとつの世界を形成していて、ほかを寄せつけない。ソリストとしてやっていくつもりだと、月森は言った。それはまさしく、彼に似合いの選択だろう。アンサンブルやオーケストラといった他者との共演よりもはるかに、月森の繰り広げる世界に浸れる独奏のほうが彼にはふさわしい。
香穂子が月森のヴァイオリンをはじめて聞いたのは、コンクールの説明を聞きに音楽室へ行ったときだ。上級生に絡まれ、その資質を見せろと言われ、彼は弾いた。その音が、生ではじめて聞いたヴァイオリンの音だったから、香穂子はすりこまれたのだ。これが正しいヴァイオリンの音であり、演奏だと。だから香穂子にとっての教本は、月森の音であり、演奏だった。月森のなめらかに動く指から生まれる音は、香穂子にとってすべてだ。その月森に否定され、香穂子は例えようもなく悲しくなった。いつも追いかけていたのは、月森の音だ。月森のヴァイオリンが好きで、月森に認めてほしくて、ただそれだけを励みに頑張っているのに。
いたたまれず、月森の顔を直視できない。大きく息を吐き出す月森の気配を感じて、香穂子はますます身体を縮こませる。
「……そうじゃない」
しかし困惑したような月森の声に、思わず顔を上げる。
苦々しい顔をした月森はヴァイオリンをケースに戻し、ピアノの前にある椅子に座った。首を左右に振って、その綺麗な指を額の前で白くなるほど握りしめる。
「どう、言えばいいんだ…」
「月森、くん…?」
香穂子が声をかけると、その端正な顔がますます歪んだ。それはまるで香穂子を拒絶しているようで、ぐっと奥歯を噛み締める。そうしないと涙が出そうだった。そうしないために、早口で暇を告げる。
「ご、ごめんね。月森くんにしてみれば、ホント、時間の無駄だよね。これからは、ひとりで練習するから。本当に、ごめ…」
「そうじゃない!」
一層苛ついたように、月森が声を荒げた。その珍しい行為に、びくりと身体を竦ませる香穂子を驚いたように見て、月森はばつが悪そうに視線をはずした。
「そうじゃ、ないんだ…。その…」
言いよどむ月森が、何を言おうとしているのか香穂子には想像がつかない。ただヴァイオリンを抱き締めて、そこに直立しているだけだ。
「君は…、俺の音を真似ようとするだろう?」
月森は言葉を慎重に選びながら話す。問いに頷くと、月森はそれが間違いなんだと、眉を寄せた。
おこがましいことをしている自覚はあった。今でも十分世界に通用しそうな月森の演奏を、ど素人の自分が真似ようとするのは本当に不相応な話で、それはわかっていたけれど、香穂子にとっては月森の音がすべてだった。だからあんなふうに弾ければいいとお手本にしていたのだ。
しかし、月森はそれを糾弾するのではなく続けた。
「君の音は、君の音だ。俺の音を真似する必要はないんだ。俺と君との音楽スタイルが違うのは当然だし、だからこそ俺は……」
そこで、月森は口を噤む。言おうか言うまいか迷っているようだった。
月森が立ち上がる。動けずにいる香穂子の腕からヴァイオリンを取り上げて、静かにピアノの蓋の上に置いた。距離を詰められて、異様に胸が高鳴った。月森は、本当に綺麗な顔をしていて、見ているだけで心拍数が上がる。けれど、この動悸はそれだけではないような気がした。
「…認めたくは、なかったんだが」
口から出たのは不本意だという単語。しかし、口調は穏やかで、表情はひどく柔らかかった。困ったように微笑んで、月森は香穂子の髪を一筋すくう。
「君の演奏は不完全だし、技術も表現力も足りなくて、それなのに」
ふ、と月森の目の色が和む。
どきりと心臓が脈打って、息が詰まった。
月森の唇が、香穂子の髪に落ちる。
「………!」
驚きに声もない香穂子に微笑んで、月森は言う。
「どうしてだろう。俺は君の音に…、君に惹かれたんだ」
その言葉を聞きながら、香穂子はただ心臓が壊れないようにと祈るのが、精一杯だった。
月日を読みたいと言ってくださった方がいたので月日更新です。久々すぎる。
無印の逆注目ルートだと思っていただければいいかな、と。
このエピソードはずっと考えていたものだったのですが、どうしても上手く話が繋がらなくて難産でした…。
……月日は、難しいね。
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2007.12.11‖コルダ:その他