文庫/68P/¥500/2007.11.03発行
土浦は学校の練習室など、ほとんど使わない。
ピアノ教室である実家は完全防音で、宛がわれたピアノの調律も鍵盤の重さも自分好みに設定してある。実際、学校にあるピアノの鍵盤は軽くてかなわない。そんな諸々の理由で、練習室など使うことがないのだ。
本当に偶然、練習室の予約表などというものが目に入り、そこに空きを発見したから練習室を使おうと思ったにすぎない。たまには違うピアノにも触れないと、勘が鈍る。
だから練習室へ続く廊下を歩く土浦の耳に、その音が届いたのは、偶然と呼ぶほかなかった。
(―――クラリネット?)
ひどく耳に心地いい音だと思った。
同時にこんな風にクラリネットを吹く生徒が、果たしていたのだろうかとも考える。
コンクールに選ばれたクラリネット奏者は、もっと硬い音をしていた。クラリネットという楽器の丸い音が台無しだと思ったのだ。ピアノ以外は門外漢だが、耳はいいと自負している。土浦は飛び入りをすることになったコンクールで、日野以前に演奏した参加者たちの音をはっきりと覚えていた。
志水の演奏は正確無比でとにかく巧い。火原の音は性格のまま明朗で溌剌として、スケールが大きい。柚木はあの優雅さと華やかさが、確固たる技術の上に繰り広げられている。
コンクールに選ばれるだけはある、と観客席で聞いていた。
しかし、あのクラリネット奏者。
(冬海、って言ったか?)
クラリネットを持って舞台に現れたのは、小柄で細く、いかにも線の細い風情の少女だった。淡い色のバルーンスカートに、フリルのついたヘッドドレス。
一目で苦手なタイプだと感じた。
彼女は緊張に青ざめて、観衆を見た。一礼して、そしてクラリネットを吹くその瞬間まで、多分あの指は震えていた。
そこから紡ぎだされた音は硬質で、クラリネットの長所を潰しているではないかと憤りを感じたのだ。忘れるはずがない。
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2007.11.03‖offline