熱伝導の方程式、乃凪視点バージョン。でもあちこち違うよ
そのボタンを押すには勇気がいった。
まだ明るい時間帯でも、ここには一人暮らしの女の子が住んでいるのだ。
そのボタンを押すには勇気がいった。
まだ明るい時間帯でも、ここには一人暮らしの女の子が住んでいるのだ。
体調を崩した亜貴が学校を休んでいると聞いたのは、放課後だった。進路の書類を提出するために向かった職員室で真朱に呼び止められ、プリントを渡された。
「俺が行ってやろうと思ってたんだけど、これから職員会議なの忘れててさー」
真朱は乃凪の肩に手を置いて、いつものように笑う。
「悪いけど乃凪、これ持っていってやってくれない?」
その言葉にこれ以上ない口実を見つけて、乃凪はそれを了承した。
本当は亜貴のことが、ただ心配だっただけだ。だが、付き合っているからと言って、一人暮らしの女の子の家を訪ねるのは気が引けた。内沼だったら従兄妹という立場をフル活用して上がりこめたのかもしれないが、乃凪には無理だ。だから、真朱の言葉は、乃凪にとって絶好の口実だったのだ。
ドアの前で深呼吸をして、インターフォンを押す。
しかし、中からの反応はない。
もう一度、押してみる。
それでも、物音ひとつしない。
眠っているのだろうか、と乃凪は思う。プリントは郵便受けに入れればいい。そうすれば真朱からの頼みごとはクリアだ。だが、そこから立ち去りがたいのは、乃凪のほうだった。
一目でいいから、姿を見たい。
もう大丈夫なのだと笑ってほしい。
だから、もう一度インターフォンを押し、控えめにノックをしてみる。
「…………依藤さん?」
ドアの外から呼びかけると、しばらくして小さな物音と共にドアが開いた。
亜貴の顔はひどく赤い。寒いのかパジャマの上に布団をかぶったままの姿だった。
「乃凪先輩だぁ…」
ふにゃ、と亜貴の顔が緩む。
「ご、ごめん。そんなにつらそうだと思わなくて。…寝てたよね?」
乃凪は慌ててフラフラしている亜貴に手を伸ばす。支えた身体が熱い。思わず顔を顰める。
「起こしちゃってなんだけど、早く布団に入って」
横目に見た台所はきれいなものだ。食事を取った形跡がない。食欲などないのだろう。亜貴を布団に横たえて、その額に触れる。汗ばんだ額はひどく熱く、乃凪の手に亜貴は気持ちよさそうに目を閉じた。
「先輩の手、冷たくて気持ちいい…」
「何か食べた? 薬は?」
尋ねると、亜貴は首を横に振る。
「食べたくないです…」
「駄目だよ。今から作るから、少しでいいから食べて」
乃凪は亜貴の額から手を離し、台所へ立つ。
食事よりも先に、と水で濡らしたタオルと水を手に部屋へ戻ると、亜貴は瞳を閉じている。足音にうっすらと目を開けるが、乃凪はそれに笑ってみせて、タオルを額の上に置いた。水枕も何もない。これでは下がるものも下がらない。せめて食事だけでもしないと持たないだろう。
寝てていいよと亜貴に言いおいて、乃凪は再び台所に立った。手早く調理をしながら、一度だけここで二人で食事を作ったことがあったことを思い出す。よくわからない力で、外見が入れ替わるという奇妙な体験をしたあのときだ。あの事件がなければ、彼女とこんな関係になっていることもなかったかもしれない。亜貴はかわいい後輩で、内沼の従兄妹で、あの頃の彼女はただ、それだけの存在だった。
けれど。
亜貴が内沼のことを好きだと気づき、それに対していらない世話だとわかりながら口を挟み、彼女が苦しそうならそれをどうにかしてあげたいと思ってしまった。それは何故だと自問して、出てきた答えはあまりにも単純だった。
亜貴のことが好きだと。ただそれだけで。
しかし、夏休み前のあの時点では、到底その想いは成就する見込みがないと知っていた。それでも構ってしまったのは期待していたからだ。優しくしてあげていれば、いつか振り向いてくれるかもしれないと愚かな希望を抱いていたからだ。その自己満足からくる欺瞞を、亜貴は優しさだと言った。乃凪のようになりたいと言って、笑った。
そんな亜貴がかわいかった。
泣きそうになるほど嬉しくて、苦しかった。
乃凪の優しさは、純粋な無償奉仕の誠意ではない。奥底には損得を考える自分がいて、だから乃凪は自分が嫌いだった。
それでも、今は受け入れてくれた亜貴がいる。自分を好きになれないのに、どうして他人を好きになることができるのだろうと気づいたのも、あの事件があったからだ。
いろいろな意味でターニングポイントだったあの事件で、一番変わったのは乃凪の自分に対する認識なのかもしれない。
湯気を吹き上げる鍋を見ながら、亜貴がいてくれてよかったと心の底から思う。だから、早く元気になってもらわなくてはいけない。亜貴が治るのだったら、自分に移ってしまってもいい。乃凪はそんなことを思いながら、亜貴が寝ている部屋へ戻る。
「…依藤さん?」
浅く息を吐く亜貴の顔や首は汗だくだ。気持ちが悪いだろうとは思うが、さすがに汗を拭いてあげようかとは提案できない。仕方なく、見えている部分の汗を拭き取ってやる。亜貴の肌を見て、理性を保てる自信はない。
「せんぱ…い…」
亜貴はうっすらと目を開ける。
「もうすぐお粥できるけど、起きられる?」
そんな乃凪の問いかけに、亜貴は頷いて身体を起こそうとするものの、力が入らないようですぐには起き上がれない。背もたれになるようなものは何かないかと乃凪は部屋の中を見回すが、必要最低限のものしか見当たらなかった。少しだけ悩み、乃凪は亜貴の背に腕を差し入れる。他に方法がないのだから、と自分に言い聞かせ、その身体を起こす。
薄手のパジャマは汗に濡れていて、乃凪の手にダイレクトに温度を伝えてくる。これは看病だと言い聞かせても、好きな女の子を腕の中に抱いているという事実は変わらない。早くなる鼓動に、亜貴が気づかないでくれればいいと乃凪は願う。
亜貴の身体は熱く、息は荒く、ひどくつらそうだ。
熱で潤んだ目で見上げてくる亜貴の頬に触れた。触れた場所から亜貴の熱が流れ込んでくれば、それで彼女が楽になれるなら、どれだけいいだろう。
優しく亜貴を抱きしめながら、このまま熱が移ってしまえばいいのにと、乃凪は思った。
2007.08.01up
亜貴バージョンの補足。
個人的に、乃凪は亜貴の部屋に一人で頻繁に行ったりはしないと思っています。古風なお家の子だから、一人暮らしの女の子の家にホイホイ上がったりはしないと思う。周りにはヘタレと思われてても、亜貴がその辺きっちりわかってればいい。
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2007.08.01‖TAKUYO