茅早さまリクエスト
インターフォンが来客者を告げた。
熱のせいでひどく苦しくて、浅い眠りだけを繰り返していた。少しも熟睡できずに、亜貴は体力が消耗していくのを、寝ながら感じている。身体が重い。起き上がるのも、ましてや歩くなんてできそうもなかった。
学校を休んだから誰かが来る可能性は高い。よくて担任の真朱、悪くすると白原や悦が来るかもしれない。白原も悦も嫌いではないが、体力も気力もない今の状況で相手をするのは少しつらい。病人を前に無体なことはしないだろうとは思うものの、できるだけ危険因子は排除したい。それならば、出ないのが得策だと亜貴は布団を首まで引き上げる。
……寒い。
ノルやルカがいたときには、熱を出して寝込んでいてもこんなに寒くはなかった。いや、寒いというよりは寂しいのか。
(会いたいな…)
インターフォンが間を明けてもう一度押される。
寂しいと感じて、真っ先に顔が浮かんだのは乃凪だった。もし外にいるのが乃凪だったら、あの扉まで這っていってもいい。
乃凪の図書館での告白によって芽生えた恋心は順調に育ち、今では立派に彼氏彼女と呼ばれる関係になった。
関係性が変わっても相変わらず乃凪は優しく、包み込んでくれる安心感がある。沢登は似た者同士だと乃凪と亜貴を指して言ったが、多分それは間違いではない。お互いに気を遣いながら、けれど決して疲れたりはしない関係。春の日溜まりに似てぬくぬくとした乃凪の側は、ひどく居心地がいい。乃凪も笑ってくれているのだ。亜貴と同じ幸せを感じてくれているのだと信じたい。
思い出してぽろり、と涙が落ちた。
気弱になっている。
会いたいと願うだけで、胸が締めつけられる。
だが、あの扉の向こうにいるのは乃凪ではないだろう。付き合っていると呼んでいい間柄だが、乃凪は変なところで真面目すぎて融通が利かない。例えば病気にかかっている一人暮らし女の子のところには、決して来たりはしないだろう。心配はしてくれても、きっと変な噂になったりしないようにこのアパートに来たりしない。
(……会いたい、のになぁ…)
涙がこぼれるままになっている。後から後から落ちてきて、どうやって止めたらいいのかわからない。枕が濡れたが、すでに汗でべったりしている。今さらだ。
また、インターフォンが鳴る。
今度はひどく控えめだが、トントン、とノックまでされた。
次の瞬間、聞こえてきた声に亜貴は目を見開いた。驚きに、涙が止まる。
「…………依藤さん?」
それは、間違いなく乃凪の声だった。
よろよろしながら、玄関へ向かう。早く早くと気ばかりが急く。ぶつかったラックから物音を立てて何かが落ちたが、気にする余裕はない。帰ってしまう前に、早く。ようやく玄関のノブに触れ、サムターンを回す。
開いたドアの向こうには、心配げな乃凪が立っていて、亜貴の身体からへなへなと力が抜ける。
「ホントに乃凪先輩だぁ…」
ふにゃ、と亜貴の顔が緩む。せっかく止まっていたのに、涙がこぼれた。
「え、あ? どうしたの? つらい?」
乃凪は慌てて座りこんでしまった亜貴に手を伸ばす。
亜貴は首を横に振る。顔の筋肉を総動員して、笑顔を作る。嬉しいのだと伝えたかった。
「会いたいなぁと思ってたら、ホントに乃凪先輩がいたので、嬉しいんです」
「………!」
亜貴を支える乃凪の腕がびくりと動く。固まってしまった乃凪に、亜貴は首を傾げる。
「どうかしました?」
「い、いや? 何でもないよ?」
見上げると、乃凪は裏返った声で答えた。その頬が赤い。何故だろうかと亜貴の頭には疑問が浮かんだが、考えがまとまらない。喉に違和感を覚え、少し咳きこむと心配そうに乃凪の眉が寄った。
「あ、ごめん。俺が起こしといてなんだけど、早く布団に入って」
追い立てられるように部屋に戻され、布団に横になる。布団をかけてくれる乃凪の手が優しくて、それが嬉しい。汗ばんだ額に乃凪の手が滑り、その冷たさに亜貴は目を閉じた。気持ちがいい。
「何か食べた? 薬は?」
尋ねられ、亜貴は首を横に振る。食欲などない。空腹を感じもしないし、寒気と倦怠感が身体を覆っている。
「食べたくないです…」
「駄目だよ。今から作るから、少しでいいから食べて」
小さな子に言い聞かせるような声色で乃凪は言い、その手を離す。寂しくて手を視線で追った。すると目が合って、乃凪が優しく微笑んだ。
「ちょっと待ってて」
そう言い置いて、乃凪は台所へ立つ。その背中を見ながら、亜貴は知らず微笑んでいた。先ほどとは違って、温かい気持ちが胸に満ちる。乃凪がいてくれるというだけで、治るような気がしてきた。寂しいなどと感じていたのも忘れ、亜貴はゆっくりと目を閉じた。
ひたり、と冷たいものが汗を拭っていく感触に、意識が覚醒する。
目を開けると、すまなそうな顔をして乃凪がそこにいた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いえ、大丈夫です…」
ぼんやりと答えると、乃凪が亜貴を撫でる。
「起きられる?」
問われて頷いたものの、どこに力を入れれば起き上がれるのかわからない。パジャマが汗で貼りつく。気持ちが悪い。緩慢な動作で起き上がろうとする亜貴の背に、乃凪は手を差し入れてくれて、それでようやく身体を布団の上に起こすことができた。乃凪の胸が目の前にあって、亜貴は頭をそこに預ける。
「い、依藤さん…?」
「…先輩が来てくれて、ホントに嬉しいです……」
「………!」
息を飲んだ乃凪に寄りかかる。トクトクと鳴る乃凪の心音が耳に優しい。身体はつらいのに、やけに満たされている感じがして亜貴は目を閉じる。
目を閉じると、食べ物の匂いが近くにあることに気づいた。目を開けて乃凪を見上げると、困ったように笑いながら、近くにあった盆を引き寄せる。
「少しでもいいから食べて」
亜貴は首を横に振る。腕が重くて持ち上がらない。身体を動かすのが、とにかく億劫だ。仕方ないなと乃凪はため息をつく。申し訳ないとは思いつつ、このままとろとろと眠りに落ちてしまいたかった。
「ほら」
口開けて、と乃凪の声がした。口元にお粥の乗ったスプーンがある。視線を上げて乃凪を見ると、口を開けてと促される。声に導かれるまま口を開くと、嬉しそうに乃凪が笑う。
「もう一口食べられる?」
今度は首を縦に振ると、また乃凪は嬉しそうに笑った。すくったお粥に息をかけて冷ますと、また口元まで運んでくれる。促されて、亜貴はまた口を開ける。お粥は温かくて、美味しくて、また泣いてしまいそうだった。乃凪が作ってくれたお粥をすべて食べきることはできなかったが、数時間ぶりに物を食べた。薬を飲まされて、乃凪は亜貴を横たえてくれる。乃凪の制服のシャツが、亜貴の汗で貼りついているのが見えた。しかし、お粥を食べたからか薬が効いてきたのか、ひどく眠い。思考回路が働かず、後片付けをする乃凪の背中を見ながら、彼がそこにいることがただ嬉しかった。
だから片付けを終えた乃凪が、亜貴の枕元に膝をつき、額に手を当てて言った言葉に亜貴は息を詰めたのだ。
「じゃあ、俺、帰るね」
乃凪の声に、亜貴は急に不安になる。また一人きりの空間に戻ってしまう。制服の裾を掴み、乃凪を引き止める。見上げる瞳が潤んでいることなど、亜貴は気づかない。
「もう、帰っちゃうんですか?」
「え、ああ。もう遅いし。戸締りだけ気をつけて…」
乃凪が帰る。
それは当然だとわかっているのに、嫌だった。側にいてほしい。温かな手が額を滑る。この手がなくなるなんて、嫌だった。
「………………帰っちゃ、やです」
小さな嘆願が、亜貴の口から漏れた。心細い。乃凪を掴んだ指が震える。
「…………あのさ、」
乃凪が、ゆっくりと大きく息を吐く。困らせてしまったと気づいた亜貴は、乃凪から手を離そうとしたが、逆に乃凪はその手を握りしめた。骨張った大きな手は優しい。嬉しいような困ったような顔で乃凪は亜貴を見た。
「俺も男だから。そういうこと言うと、つけこむよ?」
「……え?」
亜貴は、乃凪の言葉の意味を捉えきれない。
「あんまり信用されても、困るって言ったの」
乃凪の指が、亜貴の頬に触れた。触れた場所から、どんどん熱が流れ出ていっているような気がする。亜貴は乃凪を見上げる。
乃凪は困ったような顔をしている。ぼうっと、それを見ているしかできない亜貴の脳裏に、引っかかるものがある。けれどそれを掴もうとしても、脳内を覆った靄のようなものが邪魔をする。熱で思考回路が働かない。
「…でも、先輩がいいんです」
そう言った亜貴に、参ったなと乃凪は呟く。
「ごめんね」
囁きと同時に、乃凪の顔が亜貴に近づく。触れたぬくもりに、亜貴は幸福を感じながら目を閉じた。
2007.08.01up
風邪ひき看病王道ネタというご要望だったので、ベタベタなことさせてみました。
恥ずかしい……!!
リクエストありがとうございました!
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2007.08.01‖TAKUYO