月森×日野
めでたし、聖寵満ちる母マリア、主御身と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、罪人なる我らの為に。
今も臨終の時も祈り給え。
アーメン。
* * * * *
「音楽科に……転科……?」
金澤にそう言われたときには、それはなんの冗談かと聞き返したくなった。隣に土浦がいなければ、実際そうしていただろう。
馬鹿らしい、と香穂子は思う。
音楽は好きだ。
ヴァイオリンは好きだ。
けれど、これは偽物だ。自分の実力ではない。
一人、屋上でヴァイオリンを撫でる。
ヴァイオリンには魔法がかかっていて、妖精がくれるアイテムでドーピングをして、そうしてコンクールを勝ち上がった。それはほかの参加者に対して、ひどい侮辱だった。わかっていて、そうした。胸の中にある罪悪感は、コンクールに参加すると決めた時点で抱えたものだし、それを押し殺してコンクールで優勝したのは、それ以外に道がなかったからだ。
コンクールのための楽器。コンクールのための楽譜。香穂子のためにだけに用意されたアイテム。
それらを使えば、優勝してしまうのは間違いなかった。けれど、香穂子がコンクールの舞台で演奏するには、それらを使うしかなかった。
堂々巡りだ。
唯一の逃げ道はコンクールに参加しないという道だったが、それは今となっては考えられない。
音楽が好きだ。
ヴァイオリンが好きだ。
この感情を知らないで過ごすなんて、怖くて想像もできない。
だからコンクールを終えても、ヴァイオリンを手放さなかった。手放すことができなかった。
不幸にも、だから今はコンサートなどという舞台に立っている。だが、コンサートで聴衆の拍手を集めるのは、同じ舞台に立っている人たちで、自分ではない。
偽物の楽器。偽物の音楽。
本当なのは自分の中にあるこの気持ちだけ。
なのに、どうして、誰も責めないのか。
どうして誰も、何も言わないのか。
(ああ、でも…)
一人だけ、と香穂子は思う。
一人だけ、自分を否定した人がいた。
ギ、と軋む音がした。そちらを見ればドアが開いている。
あらわれた人影に、笑った。
それは、とても歪んだ笑いだっただろう。
「———日野?」
月森は怪訝そうに香穂子の名を呼んだ。
* * * * *
「…………転科の話を聞いた」
屋上のベンチに並んで座り、夕焼けを眺めた。日が落ちるのが早い。冬に向かっていることを嫌でも意識させられる。風も冷たくなってきた。ここでこうしている意味もないのだけど、移動する理由もなかった。ただ、膝の上にヴァイオリンを乗せて、月森の言葉を聞く。
「金澤先生に聞いたの?」
「ああ」
あの音楽教師、と香穂子は内心で悪態をつく。
当人たちには口外するなと言っておいて、自分はほいほいと口を割るのか。
「……………君は」
月森がこちらを見る。
彼の外見が整っていることは一目でわかる。それ以上にその精神が高潔で美しいのだと、香穂子は知っている。真っ直ぐな視線が痛い。
「……いや、それは君が決めることだな」
脂気のない髪が、さらさらと揺れる。
「転科はしないよ」
はっきりと、香穂子は言った。
月森の目が見開かれる。
「どうして」
「どうして?」
香穂子は自嘲する。
「それは、月森くんも知ってるでしょう?」
声が掠れる。
魔法のヴァイオリン。妖精の恩恵。
そんなものの上にある今の自分の音楽に、どれだけの意味がある。
「だが……、」
「言ったよね、月森くん」
月森の声を遮る。
聞きたくない。
聞いたところで、何も変わらない。
「『君を認めることはできない』って」
「けれど、あの後に……」
「そうだね、月森くんは認めてくれた」
「そうだ。だから最終セレクションで君のためにあの曲を選んだんだ」
月森の声が、ほんの少しほっとしたのがわかった。けれど追い打ちのように言葉を紡いだ。彼の期待がどこにあるのかわかっている。認めることができないのは、自分自身だ。
「でも、私が、認められない」
「………ッ」
「月森くんならわかるでしょう?」
息を飲んだ月森の、その整った顔にそれが通じたことを知る。
そう。この潔癖で誇り高い彼になら、わかるはずだ。
わかるはずだから、香穂子は言葉を続ける。
「認められないのは私。ほかの誰が何を言おうと、私が私の音楽を認められない」
音楽が好きだ。
ヴァイオリンが好きだ。
けれどこの感情は、本当のもの?
「日野———」
月森の、ヴァイオリンを奏でる綺麗な指がこちらに伸びる。
目尻から、頬へ。
ゆっくりと伝って、月森は困ったように眉を寄せる。
「泣かないで、くれ」
「……え?」
「君が、そう考えているだろうと、思っていた」
「…………」
「それでも、俺は君の音楽が好きだ」
「月森く……」
困ったように、笑う。
「君のヴァイオリンは、たしかにファータによって齎されたものだが、そのあとの努力は君のものだろう?」
月森の言葉が、じわりと沁みる。
「俺は、それを信じている」
だから、と彼は言わなかった。
涙がこぼれる。
「ヴァイオリン、続けても、いいのかなぁ?」
「君が望むなら」
月森の腕がさらに伸びて、香穂子を抱きしめた。
「君のヴァイオリンがなかったら、今の俺の音にはなっていないのだと思う。君が、俺を変えたんだ」
耳元で呟かれる言葉に、涙が止まらない。月森の背にしがみつく。その暖かさに愚かだと思いながら安堵した。
音楽が好きだ。
ヴァイオリンが好きだ。
これがなかった世界に戻ることはできない。
だから、どうか。
どうか。
どうか。
私のこの音が、あなたに届きますように。
「君のヴァイオリンを、聞かせてくれ」
月森の言葉に頷きながら、香穂子は願った。
ドーピングを今回もしつつ、思いついた話です。
本当に、月森には申し訳なく。
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2007.04.17‖コルダ:その他