それは、音楽室だった。
見つけてほしいと、多分その背中は言っていたのだ。
見つけてほしいと、多分その背中は言っていたのだ。
金澤はヴァイオリンケースに覆いかぶさるようにして突っ伏した香穂子の背中を見つけた。
音楽室が夕焼けに包まれていく中で、彼女はただ黙ってヴァイオリンケースを撫でていた。
その背中を眺め、金澤は長く息を吐く。
落ち込んでいるのは見ればわかった。普段、騒々しいばかりなのに、今日は口数が少ない。それに、いつも愛おしげに奏でるヴァイオリンに、今日は一度も触れていない。弓すら、握っていない。ヴァイオリンケースを開いてもいない。
わかっていて、金澤はいつもどおりの何気ない仕草で香穂子に近づく。
厄介事はごめんだった。それでも声をかけずにはいられなくて、教師の振りをして、その背に声をかける。
「下校時刻だぞ、日野」
びくり、と香穂子の細い肩が震える。
「………先、生」
「どうしたんだ、お前さん」
その顔が落ち込む、というレベルではないような気がして金澤は眉根を寄せた。
泣きたくて、それを必死でこらえているような。
昨日までは、普通だった。少なくとも、金澤が知る限りでは。では、なぜこの彼女はこんなにも苦しそうなのだろう。
きゅ、と香穂子が唇を噛む。
その仕草があまりにも頼りなくて、金澤はどうしたらいいのか、迷う。慰めるべきか、突き放すべきか。いつもなら、突き放している。けれど、夕焼けに染まった香穂子は、細くて弱くて、辛そうだった。抱きしめてしまいたい、となぜか思って、頭を振る。
「話したくないなら、話さなくてもいい」
頭より先に口が動いた。突き放そうとしたのではなく、本心で。
苦しいからといって、口に出せるものではない。
口に出したからといって、辛くなくなるわけではない。
辛いからといって、誰にでも話せるわけでも、ない。
昔の苦い記憶が蘇る。ぽん、と香穂子の頭に手をやって、金澤は苦笑した。感傷的すぎる。
「家へ帰ってしっかり寝ろ。お前さん、昨夜寝てないだろう。ひどい顔だぞ?」
しっかり食事と睡眠を取るだけでも、気分は前向きになるだろう。まだ、彼女は若いのだから。
そう年寄りじみたことを考えて、金澤はまた苦笑する。
な、と香穂子の顔を覗きこめば、張りつめた糸が切れるように、緊張が解けた。
「せん、せ……」
みるみる香穂子の瞳に涙がたまって、こぼれ落ちる。
「お、おい。日野」
縋りつかれて動揺する。
ついさっき、うっかり浮かんでしまった願望が、目の前にある。
このまま抱きしめたら、驚きで涙が止まるだろうか。
そんな風に考えて、誰かに見つかったら言い訳のしようがないな、と考えなおす。それでも、まあ、もう誰もいないだろうからこのくらいならいいか、と金澤は香穂子の背に手を回した。子どもをあやすように背中を撫でて、香穂子が落ち着くのを待つことにする。嗚咽の中にヴァイオリンが、と小さく交じり、ああ、と金澤は理解した。
彼女が今日はヴァイオリンを弾かなかったこと。
彼女がずっと寂しそうな、苦しそうな、悲しそうな顔をしていたこと。
声を失ったのだ。
自分を表現するための声を。
自分を代弁する、それを。
それは、とても。
「……辛かったな」
金澤が告げれば、香穂子は金澤の胸に顔を押しつけて何度も頷いた。
泣き続ける香穂子が握っている白衣はぐちゃぐちゃだ。それなのに、金澤はむしろ笑いたい気分だった。
「なあ、日野。それでも、音楽は続けるんだろう?」
ヴァイオリンケースを引き寄せて、金澤は香穂子に問う。しかし、それは質問ではなく、確認だ。だから迷っているんだろう、と。
今まで作り上げてきた音楽が、新しいヴァイオリンで再現できるのかどうか。
新しいヴァイオリンが自分を受け入れてくれるのかどうか。
恐れて、迷って、けれど音楽を捨てることなど、できるわけがなくて。
音楽は、彼女の作り上げる世界は、過去に捕われるばかりの自分すら癒していく。ファータの身勝手さにはうんざりだが、こうして原石を拾い上げるその審美眼は確かだ。普通科で、初心者で、それでも一つ一つセレクションを越えてきた彼女の音は、本物。
「このヴァイオリンで、これからはお前さんがお前さんの力だけで、続けていくんだろう?」
知らず、金澤は微笑む。
「音楽が、好きだろう?」
楽しみだ。
彼女の音楽を聞くことが、とても楽しみで仕方がない。
「続けるんだろう?」
「…………はい」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、それでも瞳だけは揺らがず、香穂子はそう答えた。
* * * * *
「………すみませんでした、先生」
とっぷりと暗くなった夜道を並んで歩く。
下校時刻なんてものはとっくに過ぎていて、さすがに生徒を一人で帰すのは気が引けた。
「まあ、これも教師の仕事のうち、かね」
「お仕事、ですか」
少し残念そうな香穂子に笑って、それにしては贔屓のしすぎだろうと速度を合わせてゆっくり歩く。
泣くのに付きあって、慰めて、一緒に帰って。
いつもならそんな面倒事、とうに投げ出している。それなのに、なぜか満たされている自分がいて、金澤は首の後ろを掻いた。
「お前さんの音楽が聞けなくなるのは、寂しいし、な」
多分、そういうことなのだろうと金澤は思う。
日野香穂子という少女が奏でる音楽が、好きだと思う。
「お前さんの音が、好きだよ」
「……………ッ」
笑って言うと、なぜか黙りこんで俯いた香穂子が、足を止める。その首筋が、微妙に赤い気がして金澤は屈んで顔を覗きこんだ。
「日野?」
夜目にも、顔が赤い。
「先生、ズルイです」
「は? なにが」
「わかってないんですか?」
「だから、なにが」
鞄で顔を半分隠しながら、香穂子が金澤を上目遣いに睨む。
耳まで真っ赤で、とてもではないけれど、威力はない。それよりもそんな顔をされるとこっちがたまらん、と思ってしまった自分にぎょっとする。
なんだ、たまらんて。
「もういいです!」
「おい、日野?」
その会話はもうたくさんだとばかりに、香穂子が金澤の先を歩く。いつもどおりの香穂子を見て、やっと金澤は息を吐いた。無意識に心配していたのだと気づいて、金澤はうろたえる。
(どうして、俺が……)
「ねえ、先生」
しばらく歩くと、香穂子が笑って振り向いた。
「私の音楽は、先生のものですよ」
笑顔がまぶしくて。
そう言われて。
不覚にも金澤は嬉しい、と思ってしまった。
(ああ、もう)
「はいはい、ありがとよ」
そうか、と自分の中でだけ、そう呟いて。
彼女の音楽が好きだということ。
彼女の笑顔が見たいと思うこと。
彼女と、共にいたいと願うこと。
それはもう忘れたと、捨てたと考えていた感情。
二度と味わうこともないだろうと蓋をした幸福。
(ああ、そういうことだ)
笑って、金澤は香穂子の距離に追いついた。
先生恋心発覚話。
第三セレの前。
これがあって、第三セレで夢のあとにを弾くのもありかなーと。
気づいてない金やんと、意識しまくりの香穂子ちゃんでした。
お互いに違うものでありながら、非常に近しいものをなくしたのだと先生が気づく話。
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2006.11.17‖コルダ:金澤×日野