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2024.11.23‖
2007.05.06 拝領

Cherishの佐倉さまよりいただいた月日。
本当にありがとうございました!



 本格的な夏にはまだ早い、しかし衣替えの時期は過ぎたある休日。夕方と言うには少し早い午後四時、香穂子は月森邸を後にした。今日一日めいっぱいヴァイオリンの練習に付き合ってもらったため、これ以上長居しては迷惑になる。陽が落ちるまでにまだ充分時間があり、こんないい天気では皆それぞれ憩いの時間を満喫しているのか、通りに人はまばらにしかいなかった。
 自分の隣には、かつて難攻不落の超堅物と呼ばれた――今でも会話が成立する者は少ない――音楽科の期待の星がいて、時折優しく微笑みかけてくれる。そんな幸せ絶頂な状況を、彼女は……決して満足してはいなかった。
 君が好きだ、私もだ、よしじゃあ付き合おう――そういう流れになったにも関わらず、今日までの三週間、未だ手も繋いでいないとは一体……。
 香穂子は隣を一定の速度で歩く月森の腕の先のものを見つめる。自分よりも大きく骨ばった手だ。触ったらやはり固いのだろうか。
(そりゃあね、お互い恋愛に関しては初心者だから、いきなりキスしろなんて言わないけど……ねえ?)
 いい加減手くらい繋いでくれてもいいんじゃないですか、月森さん?
 彼と、その手が毎日優しく触れているヴァイオリンケース(今は香穂子のだが)を交互に恨めしげに睨むとその視線を感じたのか、はたまた先程から全然喋らないお喋りな彼女を不思議に思ったのか、彼は香穂子を見て首を傾げた。
「香穂子……どうした?疲れているのか?」
「いーえ別にっ。ヴァイオリンに嫉妬してたなんて言わないですよー」
「ヴァイオリン?これは君のだが……嫉妬……?」
 軽く持ち上げてみせると、彼女はぷいと横を向いた。
「ふんだ。蓮君、いつもヴァイオリンばっかり可愛がって。私のことなんてどうでもいいんでしょ」
「何を言ってるんだ、君は」
 いきなりへそを曲げ始めた彼女に困惑して眉を顰める。そんな彼の顔に"わからない"と書いてあったので、香穂子の気分は少しだけマシになった。知っていて放置されていたなら最悪過ぎる。
「本当にわからない?」
「ああ」
「仕方ないなぁ。うーん、あのさ……ちょっとだけ進めてみない?ほんのちょっとでいいから」
「進める?足をか?」
 生真面目な返答に彼女は頬を膨らませた。
「違いますー。彼氏彼女っぽく、ちょっとイチャイチャしましょって言ってんの!」
「イチャ……ッ!?」
 目を丸くして驚いて足を止める。そんな彼に、香穂子は腰に手を当ててちょっと怒ってみせた。
「普通そういうのって女の子から言わせちゃ駄目なんだよ?……まあ、それでこそ蓮君って感じはするけどさ」
 月森は視線を逸らしたり耳の後ろを掻いたりと忙しなく動いた後、ぽつりと「その……すまない」と伏せ目がちに謝罪した。
「俺は現状で満足していたんだが……その、な、何をすればいいだろうか」
「何って……」
 口にしようとして、途端香穂子の顔が羞恥に彩られた。所詮彼女も経験ゼロの初心者なのだ。改めて言うのは結構勇気がいる……そう思って上目使いで見上げると、その態度に何を感じたのか彼の顔も赤く染まっていた。お互い立ち尽くしたまま気まずい空気が流れる。
「あの、えっと…………じゃ、じゃあ手!手、繋ごっか」
「あ、ああ」
 ほっと溜息をつくと、彼は恐る恐る手を伸ばした。彼女もごくりと唾を飲んで手を出す。あと十センチ……五センチ……。
「ひゃっ!」
 ちょんと指先に触れた瞬間、意識しすぎていたせいで不覚にも香穂子は変な声を上げてしまった。その声に驚いた二人はバッと手を離す。
「あ、あの、ごめ……っ!」
「い、いやその……す、すまない」
「…………」
「…………」
 また沈黙が落ちる。たかだか"手を繋ぐ"だけだというのに、どうしてこうも上手くいかないのか。街中にいるカップルはどうしてあんなにあっさりと自然に手を繋ぐことができているのか……香穂子は本気で首を傾げた。
 一方、月森も鎮まらない心臓の鼓動を感じながら、髪をくしゃりと掻き揚げた。
(いくらなんでも……情けないだろう、これは)
 ステージ上にいる時も、これ程の緊張感に襲われることはない。
(彼女に甘えて、今まで何もしようとしなかった罰か……)
 登下校、昼食、そして休日。彼は四六時中彼女の傍にいられて、これ以上望むことはないと思っていたのだが……思い返せば、それはコンクールの時と何ら変わらず。そんな不満を、音から察してやることができなかったとは!
「香穂子」
 今度こそ躊躇いなく彼が右手を差し出してきた。香穂子の心臓が一際ドクリと大きく音を鳴らす。
(よし、今度こそ……っ!)
 彼女の手が彼のそれに近づき――がしっ!としっかり繋がり合う。
(やった……!)
 おめでとう私、と心の中で盛大に涙を流した彼女だったが。
「…………………………握手、と言わないかこれは」
 困惑気味の彼の声にふと我に返る。
「ハッ!?」
 右手と右手。どこからどう見ても、これは恋人同士がやるような可愛らしいものではなく。
「えっ…………えええええ!?ちょ、待っ、これタンマ!」
 凄まじい勢いで飛び退き、大混乱でわたわたと腕を振り回している香穂子に最初唖然としていた彼であったが、ふっと表情を緩めると、口元を押さえて笑い出した。
「…………っく、は、ははは」
(わ、笑われた――!)
 ガーンと効果音でも付きそうな程落ち込むと、それが更に笑いを引き出してしまうのか、彼は肩を震わせて横を向く。
「ちょっとちょっとぉ!止めてよ、そこ笑うとこじゃないんだから!」
「ふ、ふふっ、すまない、でも、……くっ」
 涙まで出てきたらしく、指で拭っている。こんなに笑う月森というのも大変珍しく、通常であれば香穂子とて新たな一面を見れたことを嬉しく思うところだが、笑われているのが自分ときては嬉しいはずもない。
「〜〜〜っ!もう、知らない!」
 彼女は月森を置いてさっさか足を動かした。くすくすと笑い声が後ろから付いてくるが、もう振り向かない。振り向いてなどやるものか!
「香穂子……ちょっと待ってくれないか」
「待ちません。蓮君はそうして笑ってればいいじゃない。私は帰るんだから」
「でも、君のヴァイオリンはここだぞ」
「次学校行く時に持って来てくれればいいよ」
「参ったな……」
 競歩のような歩みで道を曲がる。あと少し先に行けば家が見えてくるはずだ。
「もういいよ、ここまで来たら大丈夫だから」
 後方の存在を気配で感じながら、しかしやはり振り向かずに香穂子は言い放った。
「今日はお疲れ様。練習付き合ってくれてありが――」
 言い終わらないうちに、タッと地面を蹴る音と共に右手に何かが触れる。驚いて視線を向ければ、そこには自然に繋がれた手と手があった。
「最後まで送らせてくれないか。俺はもう少し、君と一緒にいたいから」
 にこりと笑った月森の顔はまだ笑いが抜け切れていないものではあったが。家に着くまでの短い間、彼女は温かくやや湿った手の感触を感じていた。
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2007.05.06‖treasure
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