土浦の恋愛自覚話
よく晴れた日曜の朝。土浦はサッカー部の活動に参加するべく、予定よりも少し早めに家を出た。
梅雨どきだというのに、空はカラリと晴れている。夏が近づいていることを知らせる陽の強さに目をすがめて、玄関から出た土浦は大きく伸びをした。ここのところ、雨ばかりの毎日にうんざりしていたのだ。今日の部活では久しぶりに思いきり身体を動かせる。
学校指定のジャージに身を包んだ土浦は、肩に下げた重い荷物も苦にならない晴れやかな気持ちで学校へ向かう。このまま梅雨などあけてしまって夏が来ればいいのに、などと考えていると、駅から続いている大きな道路との十字路で見覚えのある制服姿を見つけて上機嫌のまま声をかけた。
「休みだってのに練習か? 冬海」
びくり、と小さな肩が震え、細い首がゆっくりと回って、大きな瞳が驚いたように土浦を見る。声をかけられたことも、それが土浦だったことも予想外だったのだろう。冬海はぱちぱちとまばたきをして、それから慌てて頭を下げた。
「お…、おはようございます。土浦先輩」
「ああ、おはよ。ほら、さっさと渡らないと信号変わるぜ」
身体を縮めて足を止めてしまった冬海をうながして道路を渡りながら、土浦はまだ怖がられているのか、と眉をひそめた。
冬海笙子は、春に行なわれた学内コンクールで同じ舞台を踏んだうちのひとりだ。
土浦の彼女に対する第一印象はよくなかった。冬海を一目見た瞬間、『私はかよわい女の子です』と看板を掲げられているような、そんな気分になったのだ。
怯えからか小刻みに震える彼女から連想したのは、小屋のすみで震えているウサギ。力加減を間違えたら壊してしまいそうな繊細さにげんなりして、その外見を裏切らない内気な性格にもうんざりした。
けれど春のコンクールを経て、彼女は大きく変化した。
初めて冬海の音を聞いたときには、この程度でよくコンクールに出られるものだな、と土浦は彼女を見下しすらした。第一セレクションで舞台上の彼女が奏でたのは、内面の脆さが如実にあらわれた不安定で薄っぺらな音だった。音階こそ間違えないものの、ただそれだけで印象にさえ残らない音。緊張からくる震えに音は揺らぎ、講堂で聞いていた誰もが、このコンクール参加者のなかで彼女がもっとも格下の存在であると認識できるほどひどいものだった。
だが、あるときを境にそれが大きく変わった。
変わったというか、花が開いた。そう土浦は思う。
固かったつぼみがふわりとほどけて、その鮮やかさを見せつけるように冬海の音色は艶を帯びた。クラリネット本来のやわらかさはそのままに、積み重ねられた練習は彼女自身を裏切ることなく、美しい色を乗せて響く。
元々、そういう性質があったのだろう。今の音を奏でている冬海は、コンクールの最初とくらべて随分楽しそうに見える。
そういえば、あのコンクールのあと、冬海はオーケストラ部にも入ったのだと天羽が言っていた。今日もその練習なのだろうか、と土浦が視線を下ろすと、こちらを向いていた瞳とぶつかった。思わず視線を泳がせると、冬海が必死な様子で声を紡いだ。
「せ…、先輩は、部活ですか?」
「あ? ああ。やっと晴れたからな」
突然の冬海からの質問に驚きながらも答えて、やっぱり以前とは違うなと思い直した。
コンクールがはじまったころならば、こんなふうに冬海から質問がやってくることはありえなかったからだ。
「お前はオケ部か?」
いくぶん平常心を取り戻しつつ、土浦は尋ねた。
「あ…、いいえ。あの、明日、授業で実技試験があるので、練習しようかなって。学校だといつもよりも上手に吹けるような気がしますし、集中できますから」
リリちゃんがいるからかもしれません、と少しばかり緊張を解いて、冬海も答える。普通に会話のやりとりができることにほっとして、土浦は首をかしげた。
「その実技ってソロなのか?」
「いえ、アンサンブルなんです。だから、私が足を引っ張らないようにしなきゃって」
首を振る冬海の真面目さに感心して、土浦は顎に手をやって少しばかり考える。
個人練習は確かに大事だ。ソロでは言わずもがな、アンサンブルでもオーケストラでも、ひとりひとりの音がしっかりしていることが根幹である。けれど明日が実技だというのなら、全体の音の把握ができたほうがいいのではないか。そう思いついて、土浦はその提案をするりと口から出していた。
「なんなら伴奏してやろうか? サッカー部が終わるのが昼だから、そのあとになるんだが…」
「……え?」
驚きに満ちた目が、理由を問うように土浦を見上げる。
その目を見つめ返して、土浦は自分でもどうしてこんなに冬海に対して親身になっているのだろうかと、内心ぎくりとした。
以前はあんなに苦手に思っていて、さっきだってまだ怖がられているのかもしれないと不快に思って。
それでも、今の冬海は手助けしてやりたい気分になるのだ。
人と話すことも関わることも苦手にしていたのに、オーケストラ部に入って、自分の可能性をためそうとしている。ただ大きいという理由だけで苦手にしていたらしい自分とも、こうやって会話をしようとしている。苦手を克服しようとしている。そればかりではなく、冬海は音楽に対して誠実で真剣だ。そうやってがんばっている姿を、かわいいと思う。こうして隣り合って、普通に会話できることを嬉しいと感じている。
音が変わって、冬海も変わった。
冬海の音は、例えるのならやわらかな木漏れ日だとか、春のぬるんだ風だとか、そういったやわらかで優しいものを連想させる。聞いていて心地よく、くつろいだ気分になる。自分には絶対に奏でられない音で、だから憧れもしないのだけれど、土浦には好ましく聞こえた。
しかし考えてみれば、その音のイメージは、彼女自身の雰囲気そのものではないのか。音が彼女に寄り添うようになったのだ。
導き出された答えに口もとに手を当てて、土浦は喉を上下させた。
それは言い換えれば、彼女自身を好ましく思っている、とそういうことで。
ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜて、土浦は息を吐いた。
「いや…、いらん世話ならいいんだ」
急に、隣りに冬海がいることが気になってくる。そわそわと気分が落ち着かないのを無理矢理に押しこめて自分の発言を取り消そうとすれば、冬海は目を丸くしてこちらを振り仰いできた。
「そ、そんなふうに、思いません…! 土浦先輩は、私のことを気にかけてくださっているのに、いらない、なんて思いません」
それに、と一瞬言いよどんで、目尻を染めて冬海はふわりと笑う。
「わ……私、その、土浦先輩のピアノ、好きなんです」
「……は?」
「え…、えと。最初は、土浦先輩のこと怖かったんですけど、ピアノの音がとても優しくて。だから、先輩も怖い人じゃないんだって思って…。ピアノがそうだって教えてくれたから、私、先輩のピアノが好きなんです」
にわとりが先か、たまごが先か。
脳裏に浮かんだ因果性のジレンマに、土浦は息を飲んだ。
自分が音を透かして彼女を見ていたように、彼女も音を透かして自分を見ているのだろうか。ありもしない期待に脈拍が早くなる。
「そ…そうか、ありがとな。じゃあ、あとで練習室でいいのか?」
ピアノを好きだと言ってくれた彼女に礼を言い、高鳴る鼓動を気取られないよう、土浦はつとめて普通を装った。不自然になってはいないだろうかと内心ひやひやする土浦には気づかずに、冬海は小さく首をかしげる。
「え?」
「伴奏。してくれってことだろ?」
かわいらしい仕草に、また大きく脈がぶれて顔が崩れそうになる。それにも耐えて、土浦は尋ね返した。
「あ…! あの、でも、ご迷惑じゃ……」
「迷惑だったら、最初から言わねぇよ」
本当は自分が冬海の伴奏をしたいんだ、なんてそんなこと。
口にしたらどんな表情を見せるのだろうかと想像しながら、土浦は冬海の髪をくしゃりと撫でた。
2011.05.19up
このあと伴奏しにいった土浦は、練習室が密室(@ふたりきり)であることに気づいて自分の発言を後悔するのでした。
あと、ふたりが話しながら歩いてるずーっと後ろのほうでサッカー部員が「土浦のヤツ…!ギリギリ」ってなってたら部活中おもしろい。
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2011.05.19‖コルダ:土浦×冬海