B6/50P/¥500/2011.08.12発行予定
「春には、ヨーロッパへ行く」
ざわついていた周囲が、その声とともに静まり返った。もちろんそれは錯覚で、実際にはざわめきはずっと続いていたのだけど、笙子の体感としては、土浦の声以外の音という音が一切合切ミュートされたような感覚だった。
あれはどこの店だっただろうか、と笙子は首をひねる。人気店らしく店のなかは客でいっぱいで、笙子の目のまえには湯気を立てている紅茶とチーズケーキがあった。
そうだ、と笙子は思い出す。何年まえかの誕生日、日野と天羽に連れていってもらったことのあるケーキ屋だった。フォークを持った手が一瞬震えて、ぶつかった皿が音を立てたけれど顔では笑みを作った。
「お決めになったんですね」
「ああ」
声が震えていなかっただろうか。動揺したことを見抜かれないように、笙子は笑顔を固定した。土浦はそんな笙子の表情を注意深くうかがって、笙子が動じていないことを確かめると静かに視線をはずした。そして、呻くように告げる。
「お前を、……連れていけない」
今度はぴくりと肩が揺れた。
しかしそれは、視線をそらした土浦には見えていない。そのことに安堵しながら、笙子は深く息を吸いこんだ。胸をつつく痛みを見て見ぬふりでやりすごす。声が震えないように、と今度は慎重になりながら短い答えを返した。
「……はい」
「何も、言わないんだな」
従順な笙子の答えに、顔を上げた土浦の表情は苦い。笙子は目を伏せて、手元のチーズケーキにフォークをさして切り分けた。カチリ、と硬質な音が響く。
「なんとなく、土浦先輩はそう言うだろうなって思ってました」
「そうか」
「はい」
そのことばは、嘘ではない。
土浦の未来に渡欧があることは明白で、土浦ほどではないにしろ、笙子も考えをめぐらせたのだ。いろいろな条件や状況を考えあわせると、土浦の判断は妥当であると笙子にもわかっていた。だから、おとなしくうなずいたのだ。
それでも、行かないでほしいとか、連れていってほしいとか、そういう願望は心の奥底にあって、なにかの拍子で不用意に声になってしまいそうだった。
だから笙子は切り分けたチーズケーキを口に運んで、ことばと一緒に飲みこんだ。それは、どうにもならないわがままだ。口にすれば土浦を困らせるだけの願いだ。土浦がヨーロッパへ行くなんてことは、彼が指揮者を目指した時点でわかっていて、彼の夢を邪魔することは笙子にはできない。
「…………」
「…………」
お互い無言でカップに口をつける。土浦のことばは、すなわち別離へのカウントダウンだ。距離という動かしがたいものが、数か月後のふたりの間に横たわる。そのことが気持ちを重くしていた。カップから口を離して、ふっと息を吐くと、土浦が笙子を呼んだ。
「…………笙子」
「はい」
土浦がこうして名前を呼んでくれるようになったのはいつだったのか、と記憶を探る。笙子はまだ恥ずかしくて、彼の名を呼べないでいる。離れることになるまえには呼ぶことができるようになっているだろうかなどと考えながら顔を上げた。まっすぐに見つめてくる瞳が、痛みに揺れる。
「何年かかるかわからない。だから、待っててくれなんて、そんなことは言えない。言えない、けど……」
発する声もつらそうな響きを帯びて、骨張った手が縋るように笙子の手をつかんだ。額をおしつけるようにして、ぎゅっと力をこめて握られて、泣きそうな気持ちがわきあがる。大きくて、少しかさかさしていて、あたたかくて、力強い手。それが今日はかすかに震えている。
「待っていて、ほしい……」
いつも自信にあふれている土浦らしくない、覇気のない声だった。懇願するように、土浦は言った。搾り出した声も、寄せられた眉も、苦悩に満ちた表情も、土浦がそれを切望しているのだということを知らせている。ぎゅうっと胸を締めつけられて、笙子は土浦の手を握り返した。同じ気持ちだということをわかってもらえるように、強く強く。
「先輩のことを、待っています……」
別離はつらい。悲しい。
それでも、夢を追いかける土浦が好きだから。
笙子は微笑んだ。
それを目にした土浦の顔が、あきらかに歪む。悔やむように、悲しむように、苦しむように。土浦は決して笙子のまえで涙を見せないけれど、もしかしたら泣きたいんじゃないだろうか、なんて都合のいい想像をする。
握った手にさらに力をこめて、土浦はうつむいた。そして無理やりに感情を押し殺した、かすれた声で告げる。
「……ありがとな」
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2011.08.12‖offline