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2024.11.22‖
 屋上に続くドアを開けば青い空が頭上に広がっていた。



 こんな日に、青空の下で練習するのは気持ちがいい。笙子は持って来たクラリネットを撫でる。
 突然、担当教師の都合で一時間が空いてしまった。教室で自習というのが本当だろうが、教師にとっても突然だったのか課題はなかった。教室の窓から外を見れば快晴で、クラスメイトに屋上で練習すると言ってここへ来たのだった。
 備えつけてあるベンチに座り、持ってきた楽譜に目を通す。
 どんなに弾きこんである楽曲でも、たとえ暗譜できているものでも、笙子は必ずそうしていた。楽譜は音楽を奏でるための指標だ。この五線譜に書かれた音符が楽曲のすべてだから、それに敬意を払う意味でも、笙子は楽譜をないがしろにはできなかった。
 そんなふうに、いつものように譜読みをしていると、授業中だというのにガチャリとドアが開いた。
 笙子には後ろ暗いこともないので視線をやれば、普通科の制服を着た見覚えのある人が立っていて、思わず目を丸くする。
「土浦先輩……?」
「ああ、………冬海」
 いつもよりも、精彩を欠ける声が笙子を呼んだ。怖いと思っていた先輩のそんな姿を見て、笙子はただ驚くばかりだ。
「どうなさったんですか?」
 今は授業中なのに、とベンチの隣を空ければ、大股に近寄ってきた土浦が大儀そうにそこへ腰を下ろした。そのぞんざいな態度に精彩を欠くというよりは、ただ単に不機嫌なのではないかと、笙子はびくびくと土浦の様子を窺う。
「お前は?」
 そんな風に土浦を見ていたせいで、必要以上に緊張してしまう。恐る恐る逆に返された質問に律儀に返事をする。
「えと、私は、先生のご都合で一時間授業がないので、ここへ練習に……」
「そうか、俺は……」
 言いかけて、苛立たしそうに眉を寄せる。膝の上に乗せた腕で、額を抑え不機嫌そうな顔をしかめる。
 もしかして具合が悪いのではないかと笙子は腰を浮かせかけたが、土浦の言葉にまたしても目を丸くした。
「寝不足なんだ」
「え?」
「昨日、深夜放送でおもしろいゲームがあって、ついつい見ちまってな。気づいたら明け方で…」
 欠伸を噛み殺して土浦は何でもないことのように言う。
「これじゃ授業を受けても仕方ないと思ったんで、寝にきた」
「え? え? え? それって……あの、」
「サボりだ」
 あっさりと断言され、お前にはできないだろうなぁ、と笑われて、くしゃりと髪を撫でられた。
「悪いな。お前の邪魔はしないからさ」
 土浦はそう言ったが、そんなことよりも、授業を容易くエスケープしてしまう土浦が信じられなかった。自分には決してできない。悪いことだとわかっていて、それを実行できるだけの度胸は笙子にはない。それをあっさりとしてしまう土浦を咎める気持ちはわき起こらず、それよりもただ凄いという気持ちだけが残った。
 笙子がぽかんと土浦を見つめていると、唸るように土浦は眉を寄せる。
「あー……」
 グリグリと眉間のあたりを指で抑えて、視線だけをこちらに寄越してきた。
「お前さ、授業が終わるまではここにいるよな?」
「え、ええ、はい……」
 笙子が頷くと、ついぞ見たことのないような笑顔をこちらに向けて、土浦は悪い、と小さく呟いた。笙子がその笑顔に目を奪われていると、ぐらりと土浦の身体が傾ぐ。
「限界だ……。チャイム鳴ったら、起こして、くれ」
 傾いだ身体が笙子の身体を滑り、納まるべきところで止まった。
「え、あ……、あの、あの……! つちうら、せんぱい……!」
「悪い、な…」
 笙子の抗議には耳を貸さず、土浦は頭を笙子の腿の上に乗せて寝息を立て始める。
 心の準備もないままに膝枕をすることになって、笙子はひどく狼狽することしかできない。首を左右に振り、誰かを探したところで誰かがいるはずもない。一瞬で寝入ってしまった土浦を起こすのも忍びないし、結局、笙子は手にした楽譜を見ることも諦め、土浦の寝顔に視線を落とした。
 強い光を宿している瞳が閉じているせいか、いつもよりも印象の違う寝顔。だが、それでも男らしい容貌であることには変わりなく、ひどく整ったそれに動悸がおさまらない。
 コンクールの初めでこそ、普通科のくせにと評価は低かったけれど、コンクールが終わった今では、各セレクションで健闘した土浦のファンは多い。
 ただでさえ音楽科には珍しいタイプなのだ。外見がまず、芸術家らしくない。音楽科の生徒は、程度の差はあれどどちらかというと線が細い。だが土浦はそれとは正反対だ。背が高く、肩幅があり、筋肉質でがっしりとしている。今でも長い足はベンチからはみ出して落ちている。その大柄な身体でピアノを奏でる姿は、音楽に興味がない人が見ても目を引くだろう。その上、ピアノの腕も素晴らしい。
 まず目で惹きつけられ、耳でも惹きつけられる。
 笙子の場合は音からだった。
 音を聞いて、見た目ほど怖い人ではないのかもしれないと思った。
 そもそもコンクールに出るということだけでも必死だったのに、周りの参加者は男の人ばかりだったのだ。その中で異彩を放っていたのは、普通科から参加している日野と、土浦だった。土浦に最初に引き合わされたとき、抱いた印象は『大きくて怖い人』だった。見上げなければ顔が見えない。華奢な自分と違って、しっかりとした身体つきの土浦は、まるで異世界の人のようだった。そういう人間が、それまでの笙子の世界にはいなかったのだ。
 だから怖かったし、近寄り難く思っていたのだけど。
 眠っている土浦を見る。
 こうしていると、全然そんなことはないのだ。
 確かに大きいし強面だけれど、彼のテリトリーに入ってしまえばとても優しい。そういうところが体育会系なのだと誰かが言っていたような気がする。
 それは、そうなのかもしれない。
 徐々にではあるけれど打ち解けている。
 以前とは違って、会話が続くようになった。土浦の怒る以外の表情もたくさん見た。声をかけてもらって、挨拶をして、少しずつ距離は縮まっている。
 それが、嬉しい。
(………え?)
 笙子は頬に手を当てる。
 どうして嬉しいのだろう。考えはじめて、土浦の寝顔を見る。
 ふと視線をずらしたときに目に入った手は、笙子のものと比べると一回りも二回りも大きい。骨張ってごつごつとした手は、ピアニストのものらしく美しいが、けれど音楽科の生徒のそれと比べると男の人のものだと意識させられる。
 そう、男の人なのだ。
 気づいて顔に血が昇る。
 その男の人に膝枕をしているという今の状況は、笙子のキャパシティの外にある。見惚れるような寝顔だが、それも動悸を激しくさせるものでしかない。
 起こすこともできず、動くこともできない。
 己の小心さを呪いながら、笙子は小さくため息をつく。けれど、こうしているのが不快ではない。 土浦は何も知らないような顔で眠っている。
 土浦の頭の重みを膝に感じながら、ドキドキする心臓を抑えて、早くチャイムが鳴ればいいのにと笙子は考えていた。
 もう、クラリネットの練習なんて、できそうになかった。





お嫁にいった作品です。
途中で土浦視点にしておけばよかったと、何度思ったことか…!(笑)
まあ、でも設定が強引なわりにはうまく纏まったんじゃないかと思います。
土浦は冬海ちゃんの邪魔しすぎ。
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