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2024.11.22‖
※閲覧注意※ パラレル



 それは、ひどい嵐の夜のことでした。
 人魚の王の娘——笙子は15歳の誕生日にはじめて昇っていった海の上で、荒れ狂う波に今にも飲み込まれてしまいそうな船を見つけました。
 人間がそういうものに乗らなければ、海へと出られないことは知識として知ってはいましたが、実際に目にする船はひどく大きく、笙子を怯えさせました。ですから、笙子はその光景を遠巻きに見ているほかありませんでした。
 しかし、そのときです。
 高波に船が大きく揺れました。そして、その甲板から誰かが振り落とされたのを、笙子は見てしまったのです。
 笙子は人見知りの嫌いがありました。だから一瞬躊躇いましたが、勇気を振り絞ってその人影に泳ぎよっていきました。
 波間に揺られたその人は、海に落ちた衝撃からかすっかり気を失っていましたが、瞳を閉じたその姿からも、随分凛々しいことがわかりました。助けるために回した腕は、男の身体を抱えきることもできず、笙子は驚くばかりです。人魚の中には、こんなに大きく逞しく精悍な人はいませんでした。
 どきりと脈打った胸に首を振って、笙子は懸命に男を岸へと運ぼうとしました。
 大柄な身体は海水のおかげで軽くなっていましたが、笙子にとっては大荷物です。泳いで泳いで、ようやく岸辺にたどり着いた頃には、東の空が白みはじめていました。
 陸に上げた男が一向に目を覚まさないのに不安がこみ上げますが、心臓ははっきりと鼓動を刻んでおりましたし、息も確かにしていたので、笙子はほかにできることもなく、まじまじと男を見ました。
 やはり男は、笙子の身の回りにいた人魚たちの誰とも違って見えます。笙子は自分の頬が熱くなっていくのを感じました。胸がどきどきと高鳴って仕方がありません。収まらない鼓動に胸に手をやると、遠くから人の声が聞こえてきました。慌てて笙子は岩陰に身を隠し、男が助け出されるのを確認してから、住処へと戻りました。
 それからというもの、笙子はくる日もくる日も、その男のことを脳裏に思い浮かべてはため息をつくのでした。名前も知らない人間の男は、笙子の胸に住み着いて離れようとしません。そして笙子はとうとう男に会いたくてたまらなくなり、城から遠く離れた洞窟へと向かいました。そこには魔法使いが住んでいて、対価さえ払えば、どんな願いも必ず叶えてくれることで知られていたのです。
「……人間の男に会うために、人間の女に、ね」
「は、はい…」
 黒づくめの魔法使いは、呆れた様子を隠すことなく大きく息を吐きました。びくりと怯えた笙子に構うことなく、魔法使いは冷たい視線を投げかけてきます。
「まあ、君がどうなろうと私には関係のない話だ。対価さえくれるのならば、叶えてやろう」
 魔法使いは言いながら、笙子にひとつの小瓶を渡しました。それを両手で受け取って、笙子は魔法使いを見上げました。呆れた様子を崩さず、魔法使いはつまらなそうに告げます。
「それを飲めば君の望みは叶うだろう。だが、その代わりに……そうだな、君の声をもらおうか」


 笙子は小瓶を大事に抱えたまま、男を引き上げたあの岸に来ていました。満月の空の下かざしてみた小瓶には、なみなみと液体が満ちています。きれいに装飾された蓋を開くと、星の光を集めたように淡く光を放っていました。
 これを飲んでしまえば、もう人魚の国に戻ることはできないのです。両親のことを思い出して、笙子はぐっと小瓶を握った手に力をこめました。
(でも、あの人に、もう一度でいいから会いたい…)
 思い切ってぐい、と瓶の中身を煽ると、笙子は急に息苦しくなりました。今までは、海の中で呼吸していたものが、陸の生き物になるのです。そして人魚の尾ひれは人間の足に。想像を絶するような痛みに、笙子は声も出ませんでした。いえ、声は魔法使いに奪われてしまったのです。涙をぽろぽろとこぼしながら、笙子は必死で耐えました。意識を失ってしまえればいいのに、と考えましたが、それすらも痛みの中に埋もれていきます。
 いつかのように、東の空が白みはじめ、笙子は横たえていた身体を起こしました。こわごわ見下ろしてみると、腰から下にはしなやかに伸びた二本の人間の足があります。触れれば、たしかに触れた感触があります。間違いなく自分の足でした。
 おそるおそる立ち上がってみましたが、今度は歩き方がわかりません。海の中でひれを使って泳いでばかりいたのですから、無理もありませんでした。何とかよろよろと歩き出してはみましたが、数歩歩くとそれだけで汗がにじんできます。このままでは、会いたい人にも会えないままです。どうしたらいいのかわからず、悲しみに支配されて、笙子は浜辺に倒れ込んでしまいました。
 横たわると、人魚から人間へと変化した疲労に、意識が朦朧としてきます。ぼんやりとこれからを考えると、胸が押しつぶされそうな不安でいっぱいになりました。たまらずぽろぽろと涙を流していると、ふいに笙子は誰かに声をかけられました。
「お、おい! お前大丈夫か?」
 その声色はひどく慌てていて、それに急かされるように瞳を開けた笙子は、思わず目を見開きました。なぜなら肩をつかまれ、仰向かされた先には、会いたいと願ってやまなかったあの人がいたのです。
 目を閉じていたときにはわかりませんでしたが、男の視線は強く、思わず笙子は俯いて身体をぎゅっと固めてしまいました。男が目を閉じているときには、あんなにもまじまじと見ることができたのに、見つめられるとどうしたらいいのかわかりません。
 そんな笙子を抱き起こし、男は自分の上着を脱ぐと笙子に着せかけました。笙子は何もまとっていなかったのです。恥ずかしさに服の合わせを掻き合わせると、男は言いづらそうに尋ねてきました。
「そ、そんな格好で寝転がって、どうしたんだよ。……まさか、誰かに何か……」
 『誰か』と言われても、人間になってはじめて出会ったのが彼です。そして『何か』の意味がわからず、笙子が首を傾げて目を瞬かせると、男はほっとしたように息を吐き出しました。
「そ、そうか。大丈夫か…」
 気まずそうに頭をがしがしと掻くと、男は笙子の隣りに腰を下ろしながら問いかけました。
「一人か?」
 笙子が頷くと、男は目のやり場に困るのか視線を逸らして海を見つめました。
「そんな格好じゃあ、あれだな。一人じゃ危なそうだし、家まで送ってやるよ」
 そう言いながら立ち上がる男に、笙子は首を振ってみせます。
「何だよ。一人で帰れるのか?」
 男の問いに、笙子はもう一度首を横に振りました。
 もう、帰る場所などないのです。人魚の国にすべてを置いて、この男に会うためだけに人間になったのです。しかし、ひと目だけでも会えればいいと思っていたのに離れたくなくて、笙子はとうとう泣き出してしまいました。男は慌てたように再び笙子の隣りに座り込みます。
「お、おい。泣くなよ、何だよ。………もしかして、帰るところがないのか?」
 焦った声色に、笙子は涙で濡れた目を上げて、こくりと頷きました。その答えに、男はぐっと眉を寄せます。直感的に困らせていると思った笙子は「ごめんなさい」と声にしようとしました。けれど、声は魔法使いに奪われているのです。気持ちは声にならず、笙子は唇をぱくぱくと動かすことしかできませんでした。
 そんな様子に気づいた男は、驚いたように目を見開きました。
「お前、声が……」
 そうか、と呟いて、しばらく考え込んでいた男は決意したように立ち上がりました。そして笙子に手を差し伸べ、こう尋ねました。
「俺と一緒に来るか?」


 男は梁太郎といい、海沿いの町の住人でした。
「お前一人くらいなら面倒みてやれるけど、男の独り住まいだからな。嫌なら別の家に聞いてやるぜ。どうする?」
 そう問われて、笙子は梁太郎の服の裾をぎゅっと握りしめて、一生懸命に首を振りました。せっかく会えたのです。離れたくありませんでした。それに、梁太郎以外の人間がどういうものだかわからず、少なくない不安が笙子の中に広がります。怯えているような笙子の頭を撫でて、梁太郎は苦笑しながら頷きました。
「わかった、わかったよ。お前のことは俺が面倒みてやるから。そのかわり、家が広くないとか、飯がまずいとかはなしだぜ?」
 そう言う梁太郎に連れられてやってきたのは、一人では充分な、そして二人で暮らすには少しばかり窮屈かもしれない一軒家でした。
 梁太郎は、ピアノを教えることで生計を立てているのだと言いました。しかし、笙子にはその『ピアノ』というものがどういうものだかわかりません。通されたリビングに大きく黒い箱形のものがあって、笙子の目は、はじめてみるそれに釘付けになりました。梁太郎は笙子の横を通り過ぎ、その前にある椅子を引いて、手の関節を解しはじめました。
「せっかくだから一曲弾いてやるよ」
 そして、梁太郎の指から奏でられたのは、笙子が今まで聞いたことのないものでした。海の世界には『音楽』というものがなかったのです。笙子は目をキラキラさせて、それに聞き入りました。長く骨張った指から生み出された音は、笙子の胸を一層梁太郎に引き寄せました。曲が終わり、しばらくしても、曲の作る世界から抜け出せなかったほどです。
「おい?」
 梁太郎に怪訝そうに振り返られて、笙子は我に返りました。手のひらが痛くなるほど拍手をすると、梁太郎は一瞬驚いたように表情を止め、立ち上がって笙子の側まで歩み寄ってきました。不思議に思いながら梁太郎を見上げた笙子の髪を、彼はぐしゃぐしゃと乱暴にかき回し、ふと思い出したようにその手を止めます。
「あ、そうだ。一緒に暮らすなら、名前がないと不便だよな」
 困った、と梁太郎が眉を寄せるのも無理はありませんでした。声も出せず、字も知らないでは、笙子の名前を知る術などありませんでしたから。
 だから、この時ばかりは、笙子も何度も何度も唇を動かして名前を伝えようとしました。それを察した梁太郎も、辛抱強く唇の動きを読み、名前を突き止めてくれました。
「……しょうこ、笙子、な。それじゃあ、これからよろしくな、笙子」
 梁太郎に呼ばれると、自分の名前であるはずなのに、全然違う響きを持つようでした。どきりと大きく脈打った心臓に手を当てながら、笙子は恥ずかしさに俯きました。
 名前を突き止めると、今度は身の回りのものです。身ひとつで浜辺に転がっていた笙子にまず必要なのは服でした。梁太郎は近所の友人宅へ行って、いらないものをもらってきては、笙子に与えました。
 大きな潤んだ瞳に赤くつややかな唇。透き通るような白い肌には、長い睫毛が影を落とし、短いながらも細く柔らかな髪に縁取られた顔は小さく卵形。身なりを整えた笙子は、これ以上ないほどの美少女に変身しました。
 そんな世間知らずな笙子に、梁太郎は強い庇護欲を感じました。ですから梁太郎は、見ず知らずの笙子を、疑うことなく側に置きました。元々が独り身で、財産があるわけではないのです。騙されたところで、大した被害があるとも思えませんでした。それに素直で無知な笙子が、そんな腹芸ができるとも考えづらかったのです。
 梁太郎は笙子に、生活に必要なことを一から教えました。素直な笙子は、梁太郎の教えたことを必死で理解しようとしました。そんな梁太郎との生活は、楽しく驚きに満ちていて、それは充実した日々でした。
 けれど、笙子は時折ひどく悲しくなることがありました。
 外に出ることを怖がらなくなった笙子を、梁太郎は頻繁に連れ回すようになりました。そこで行く先々で梁太郎と笙子は『兄妹』に間違えられるのです。確かに梁太郎と笙子の髪の色は似ているかもしれません。けれど、それがとても悲しくて苦しくて、笙子は一人で涙を流すこともありました。
 そして、そうして外に出るようになれば、梁太郎と仲のいい女性に会うこともありました。そのどれもが、自分とは違い明るく溌剌とした元気のいい人ばかりです。自分と彼女たちの違いに、笙子はひどく落ち込みました。
 それがどうしてなのか、ようやく笙子は理解することができるようになっていました。
(私、あの人が好き……)
 恋情を理解するとともに、自分が彼にとっての恋愛対象になり得ないことも理解してしまいました。そんな苦しみを誰にも言うことができず、笙子はただ泣くことしかできません。
 そして思い出したのは、魔法使いの告げた残酷な言葉でした。
『それを飲んだが最後、もう君は家族のもとへ帰ることはできない。海へ入ろうとすれば、君は海の泡になって消えてしまうだろう』
 梁太郎の近くにいることができる幸せと苦しみを天秤にかけて、笙子は海を眺めていることが多くなりました。
 そして、その日は急にやってきたのです。


 梁太郎と一緒に暮らすようになって、一年が経とうとしていました。
 15歳の誕生日に、はじめて海の上へ上がることが許されて、はじめて見た人に恋をして、こうして居を同じくするようになるなどと、一年前の誕生日には考えもしませんでした。けれど、相変わらず笙子は幸せと苦しみの間を行き来しています。
 梁太郎と一緒にいられることは、幸せでした。梁太郎の勧めで、笙子はクラリネットを吹くようになりました。努力家の彼女は、みるみるうちに上達し、今では演奏の依頼がくるほどになっています。ずっと梁太郎に頼りきりだった生活が、少しずつ変わっていくことに笙子は喜びすら覚えていました。
 けれど、そうなってから梁太郎の態度がおかしいのです。二人でいても、以前のように側にいてくれることもありません。それどころか、どこかよそよそしさを感じるのです。
 きっと自分が何かしたのだ、と笙子は思いました。梁太郎に嫌われてしまっているのなら、側にいる意味などありません。彼に疎まれてしまっているのなら、海に消えてしまった方がましです。それでも、笙子は梁太郎の側にいることが幸せでした。
 そう笙子が迷い、決めあぐねているときでした。
 クラリネットの演奏依頼があり、笙子は梁太郎と連れ立って、その家へ行きました。ピアノが上手い梁太郎がクラリネットの伴奏をしてくれることは、珍しくありませんでした。そうやって、一緒に演奏できることも笙子の幸せのひとつでした。
 その日は梁太郎に言われていたので、笙子が持っている中で一番新しくて一番きれいで一番立派な服を来ていました。数日前に梁太郎から手渡されたものでした。淡い水色のワンピースは、笙子の清楚さを際立たせています。それを梁太郎からの贈り物だと信じていた笙子は、袖を通している間も嬉しくて、頬は薔薇色に染まっていました。
 笙子たちを呼んだ家は、立派な門構えをしていました。笙子の脳裏に、海の底の城が思い浮かびました。しかし隣りを見上げれば梁太郎がいます。今、笙子が帰る家は、梁太郎とともに暮らしている、あの慎ましい家でした。あの家に帰れることが、笙子の幸せです。
 そんなことを思いながら玄関ホールを抜け、広いリビングにやってくると、そこに笙子を呼んだ家の主がいました。大きく柔らかなソファから立ち上がった男は、梁太郎と同じくらい背が高かったので、笙子は首が痛くなるほど見上げなくてはなりません。そんな笙子の前に跪いて、家の主はこう言いました。
「ああ、やっぱり似合うね。見立てたとおりだ」
 言葉の意味が、わかりませんでした。しかし目を瞬かせる笙子など気に留めず、小さく細い手を取って、主はその甲に口づけたのです。彼に告げられた言葉は、まさに衝撃でした。
「彼には了解を取ってある。君が頷いてくれるのなら、僕の妻になってほしいんだ」
 視線を笙子の背後に走らせたのを見て、これは梁太郎も合意の上なのだと、笙子は絶望に唇を震わせました。
 主は街頭でクラリネットを吹く笙子を見初めて、梁太郎に話を持ちかけていたのです。そして、梁太郎はそれを了承したのでしょう。
 笙子は嫌だと泣き叫んでしまいたい衝動に駆られました。
 けれど、魔法使いに奪われた声を発することはできません。できることはといえば、はらはらと涙をこぼすことだけです。首を左右に振ると、主は困ったように手を離しました。
「……困ったな。ねえ、君。彼女は乗り気だったんじゃないの?」
 主が梁太郎に尋ねるのを聞いて、何かが笙子の中でガラガラと崩れ落ちました。
 梁太郎が自分を邪魔に思って追い出そうとしているのだと、そう思ったのです。
 あまりのショックに、笙子は身を翻しました。リビングを出て、玄関ホールを抜け、立派な門構えを潜って、夜の帳が下りようとする道を海へ海へと駆けました。
 ざざ、と波の音が近くなり、そこで笙子は一瞬足を止めました。このまま海へ入ってしまえば、笙子は泡になってしまいます。そして、もう二度と梁太郎には会えないのです。
 その躊躇が、梁太郎を追いつかせました。
「笙子…!」
 息を切らせて追いかけてきた梁太郎が、笙子の腕を捕らえました。笙子は懸命に抗いますが、力で敵うはずもありません。荒く息を吐く梁太郎の胸の中に捕われると、身動きもできませんでした。ただ、瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれるばかりです。
「ごめん、ごめんな…」
 謝る梁太郎にぎゅうと抱きしめられて、息も苦しいほどです。それでも笙子の涙は止まりません。
 梁太郎は困ったように眉を寄せ、笙子の涙を拭いました。あとからあとからこぼれる涙を、ひとつ残らず拭いました。
 しばらくして、笙子が落ち着いたのを見計らって、梁太郎は静かに口を開きました。
「お前に、幸せになってほしかったんだ。だから、あいつの言うことを飲もうとした」
 涙に濡れた目を上げると、月明かりに梁太郎が後悔をにじませた顔で笙子を見ていました。
「……本当は俺が幸せにしてやりたかった。でも最近、お前は俺といても笑わなくなったし、ずっと海ばかり見ていたから、それなら拾った責任を取って、いい相手を見つけてやろうと思った」
 その言葉に、笙子は懸命に首を振りました。
 笙子を幸せにできるのは、梁太郎だけなのです。そんなことになるくらいなら、海の泡になって消えてしまった方がずっとましでした。そのことを伝えたいのに、笙子には声がありません。ほかに方法もなく、笙子はぎゅうっと梁太郎の胸にしがみつきました。離れたくないと思いながら力一杯に握りしめます。
 梁太郎はそんな笙子の内心を読んだかのように、同じように力をこめて笙子の身体を抱き返しました。
 そして、静かな声でこう言ったのです。
「………俺が、最近避けてたから、笑わなくなったんだよな。わかってたんだ。でも、お前といるのが苦しくて、お前のことを傷つけちまいそうで、これ以上一緒にはいられなかった」
 え、と笙子が驚きに顔を上げると、梁太郎は真剣な瞳で笙子を見下ろしていました。
「お前は、俺のことを恩人だと思ってるだろう。だからクラリネットで稼ごうとしてくれてた。でも、そのたび、俺がお前にしてやれることが少なくなるのが嫌だった。しかも今回の件で、お前のことをかわいいって思うのは俺だけじゃないって気づいた。ただの恩人の俺は、もうお前の側にはいられないんだって、そう思い知らされた。でも俺は……、俺はお前を、そんなふうに見てない。最初から、下心があって、お前を助けてる」
 笙子を見つめる梁太郎の瞳に、熱が宿りました。梁太郎の言葉は、笙子にとって予想外のものでした。驚きに目を瞠る笙子を真っ直ぐに捕らえて、梁太郎は懺悔するように声を絞り出します。
「お前が俺を頼るのは、最初に俺がお前を助けたからだろう? でも、もうそれだけじゃ足りないんだ。俺は、お前の保護者じゃない。お前に惚れてる、ただの男だ」
 笙子の丸い頬を、涙の雫が伝いました。驚きに見開かれた目からは、悲しみではなく驚きと喜びの涙がこぼれ落ちていきます。
「何も言わないで逃げるばっかりで、悪かった。最初から言えばよかったんだ。そうすれば、お前に嫌な思いをさせたりしないですんだのにな…。最後に、嫌な思いさせてごめんな」
 しかし、涙の意味を勘違いした梁太郎は、笙子の身体から離れていきました。梁太郎のシャツを離そうとしない笙子の指を、一本一本大事に解いて、すっかり二人の身体が離れると笙子に触れようとはせず、苦しげに笑いました。
「明日には家を出ていく。面倒なこと頼んで悪いが、あの家の処分は、お前に任せるから」
 そう言って背を向ける梁太郎に、笙子が抱きついたのは衝動でした。
「お。おい!」
 腕が回りきらない身体は、あの嵐の夜に笙子が助けたときと同じでした。
 驚きに笙子を見下ろす顔は、笙子が人間になって出会ったときと同じ。
 せっかく想いが同じだとわかったのに、もう二度と会えないなんて考えられませんでした。
 笙子は、一生懸命に唇を動かします。これほどに声が出ないことを疎ましく思ったことはありません。名前を告げられなかったあのときよりも、もっと切実に声が戻ればいいのにと願いました。
「……何だよ、……『ス』……『キ』……? …………………好き?」
 梁太郎の答えに、笙子は大きく頷きました。梁太郎を抱きしめる腕に力をこめて、離れまいとします。
 笙子の唇の動きを読んだ梁太郎は、しばらく驚きに何の反応もできないでいました。けれど、ぐるりと身体をこちらへ向けて、笙子と向き合いました。笙子の涙に濡れた頬を両手で包んで、梁太郎は焦る気持ちを抑えこんで尋ねます。
「本当か? 同情とか、無理してたりとかじゃなくて、本当に俺のことが好きなのか?」
 今度も笙子ははっきりと大きく頷きました。先ほどと違うのは自分の行動に気づいたのか、その頬が真っ赤に染まっていたことです。それでも、笙子は梁太郎に捕らえられた頬をそのままに、恥じらいながら彼を見上げました。
 息を飲んだ梁太郎が、腹を決めたように笙子の目を見返しました。
「…………じゃあ、逃げるなよ」
 逃げると言われて、笙子は何のことかと目を瞬かせました。
 しかし、ただでさえ近かった梁太郎の顔が息の触れる距離に近づき、さらに目が伏せられ、顎を傾げられ、何をされるのかわかると逃げたくなりました。でも頬を抑えられているので、逃げられるはずもないのです。ぎゅっと目を強く閉じ、身体を固めて待っていると、柔らかな感触が唇に落ちました。
 一瞬だけ触れたそれが離れ、目を開くと、そこには照れくさそうな梁太郎の顔があって、笙子は恥ずかしさに頬を染めながら、幸せにふんわりとした笑顔を浮かべました。これからは『兄妹』と言われても否定できるのです。誰かが梁太郎を連れて行こうとしたら、嫌だということが許されるのです。
 嬉しくて微笑むと、梁太郎はまた息を飲んで、我慢ならないというように笙子の腰を引き寄せました。
「…………ッ」
「あんまり、かわいい顔見せるなよ、馬鹿。ずっと我慢してたんだぞ」
 困ったような梁太郎に、笙子は思わず笑ってしまいました。
「…ふふ」
「………え?」
「………あ…」
 こぼれた笙子の声に驚きに目を瞠ったのは、両方でした。笙子は思わず、両手で口元を覆い隠します。
 想いが通じ合ったからか、くちづけをしたからか、それともまったくの偶然か。理由はわかりませんが、笙子の声は間違いなく戻っていました。
「わ、私……、私………」
 忘れかけていた自分の声が戻るという予想外のできごとに涙を浮かべる笙子を、梁太郎はじっと見つめていました。笙子が言おうとしているのを、待っているかのようでした。
「…私、あなたが好きです。ずっと、ずっと……」
 涙まじりの告白に、梁太郎は笙子を強く抱きしめました。そして、笙子の目を見つめて低く囁きました。
「俺も、お前が好きだ」
 告げると、二人の影はもう一度重なったのです。


 人魚の娘は、こうして恋を成就させました。
 そして、いにしえの物語のとおり、めでたしめでたしで幕は閉じるのです。





ハッピーエンドな人魚姫。
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