八木沢×かなで
午後の練習をする前に菩提樹寮へ戻ってきたのは、何の意図があったわけではない。少し休憩を取ろうかと足を向けただけだった。
夏の太陽は容赦なく照りつけてくる。それに辟易しながら、かなでは空を仰いだ。憎らしいくらいの青空の色は濃く、白い雲との対比が明確だ。そして、大合唱の蝉の声。寮への坂道を上がりながら、額に浮いた汗を拭く。
もう少し陽が陰ってから練習を再開しようと決めて、かなではヴァイオリンケースを持ち直した。
寮の前にたどりつくと、今日はやけに静かで、入寮の初日を思い出す。あのときは、庭も寮内も無人なのかと疑うほどの静寂に支配されていた。それもタネをばらせば、入寮者が極端に少なかっただけなのだが、セミファイナルを目前に控えた今は至誠館や神南のコンクール参加者も加わって随分賑やかになっている。だから、こんなに静かなのは久しぶりだ。
そのままキッチンへ進むが、人の気配はない。冷蔵庫を開くと、麦茶が入っている。それをグラスに注いでいると、どこからか名前を呼ばれた。
「お帰りなさい、小日向さん」
突然声をかけられたことに驚いて、声のするほうを向いたけれど、姿が見えない。声は、開け放っているガラス戸のほうから聞こえてきた。もしかしたら庭に誰かいるのかもしれない、とガラス戸にそろそろと近寄ると、東金の持ち込んだ家具の向こうに、座り込んだ八木沢が見えた。
「はー、何だ。八木沢さんですか」
かなでは胸を撫で下ろしてグラスを持ったままさらに近寄った。
八木沢は、足を庭へ投げ出したまま、身体をひねってこちらを向いている。少しばかり申し訳なさそうな顔をして、彼は頭を下げた。
「驚かせてしまったみたいで、すみません」
「いえ。あの……、それよりも、何をしているんですか?」
かなでの視線のさきは、八木沢の足元だった。
どこから見つけてきたのか、そこには水を張った大きなタライがあった。八木沢は膝までズボンを捲りあげて、その中の水に足を浸している。
「ああ、これですか。こうすると涼しいんですよ」
足湯の逆ですね、と八木沢はつま先で水を蹴る。
「今日も暑いですもんね〜」
かなでがバテバテの様子でそう言うと、八木沢は首を傾げた。
「それでは、小日向さんも入りますか?」
「え、いいんですか?」
思わず聞き返すと、八木沢は笑顔を浮かべて頷いてくれる。
「ええ、どうぞ。ひとりでいるのにも飽きてきたところですし」
もともと、今日の午後の練習はもう少し陽が陰ってからにしようと思っていたのだ。相変わらず蝉は鳴き続けているし、光と影の境目はくっきりとしている。こうすれば涼しい、と言われれば気になって、かなでは立ったまま靴下をつま先から引き抜いた。
「じゃあ、失礼します」
八木沢が屈んで足元のタライをかなでのほうへ寄せ、身体も少し脇へ寄せてくれたので、そのとなりに腰を下ろす。
あ、と思ったのは、水に足を浸してからだった。
畳の短辺ほどしかないガラス戸の開口にふたりで座れば、シャツの下の体温がわかるほどに近い。それに、足元にあるタライもそんなに大きいわけでもなく、膝が触れそうだ。
幼なじみに響也や律がいるから、異性に免疫がないわけではない。けれど相手が八木沢だと思うと、勝手に心拍数が上がっていく。どんどん体温が上がる。
会話が続けられなくなれば、八木沢も不審に思うだろう。そうわかっていても、タライの中の二組の足を見つめるしかできず、そのことで八木沢と自分の足の違いに気づいてしまって動揺する。
自分よりも少し色が黒くて、自分よりも太い足。性格の穏やかさからは想像できないが、アウトドアが好きで意外とアクティブな八木沢の足は筋肉質で逞しい。
同じように、視界の端に映る腕も、触れる肩も、自分のものとは違っていて、かなでの心臓は音を立てそうな勢いで脈を打つ。
「………何というか、その…」
どきどきする心臓を鎮めようとじっと水面を見つめてるかなでに、言いづらそうな八木沢の声が降ってくる。
「思ったよりも、近いというか、………恥ずかしいですね」
少しだけ顔を向けて八木沢の表情を浮かべると、恥ずかしそうに頬を染めていて、かなでは自分の頬も真っ赤になっているのを自覚した。耳まで熱くて、きっと八木沢には知られてしまっている。そう考えれば、余計に頬が熱くなっていくような気がした。
涼しくなるはずだったのに身体は熱くて、でも離れがたくて、八木沢も同じ気持ちならいいのに、とかなでは思った。
おばあちゃんの知恵袋的な。
こういうの何て言うんでしたっけ? 足水?? ……絶対違う。
きっと土岐と交互に打ち水したりしてると思います。八木沢部長。
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2010.03.12‖コルダ3