B6/24P/¥300/2010.10.03発行
固まった。
多分、その表現が一番しっくりくる。
そのとき八木沢は目を見開いて、一ミリたりとも動くことができなかった。あの一瞬に息が止まり、心臓が止まったとしても不思議はないほどの衝撃を受けた。
視覚も聴覚も嗅覚もなくなり、世界は八木沢から遠く隔たった。八木沢が想像しうるすべてを超越して、それは起こった。
それは八月十五日。全国学生音楽コンクールのセミファイナルが終わったあとのことだった。
八木沢は、花火大会が苦手だった。それは幼いころの記憶に起因する。
小学生に上がったばかりのことだ。夏休みを利用して訪れた神戸で行われた花火大会。そこで幼い八木沢は迷子になったのだった。
あのときの、心臓が凍るような恐怖は忘れられない。
夏の短い間にだけ訪れる神戸は、地元の仙台とは違い、異国情緒に満ちていて華やかだ。明るい陽の下で見る目新しい風景は八木沢の心を弾ませたけれど、宵闇に沈む街は八木沢を飲みこんでしまうつもりであるように見えた。見知らぬ街に、ぽつんとひとり取り残されて、もう仙台にも、神戸の宿代わりである幼なじみの家にも戻れないのではないかと思えたのだ。
その日は、昼からいつもと雰囲気が違っていた。昼ご飯を食べ終わると、自分も弟妹も、そして幼なじみも揃って浴衣を着せられ、祭囃子もにぎやかな街中に連れ出された。縁日を練り歩きながら、日暮れを迎えた。普段と違い、財布のひもの緩い母親たちは、八木沢たちが乞うままにかき氷やヨーヨーを買い与えてくれた。
和菓子屋の息子とはいえ、滅多に着ることのない浴衣に八木沢も浮き立っていた。それにお祭りの空気だけで、心が躍り出すようだった。本当に、つい先ほどまでは、ただただ楽しかったのに。
それなのに、この落差はどうだ。
心を締め付ける不安と戦いながら、人の波の間を漂った。考えてみれば、迷子になったらその場を動かずにいることが肝要なのだけど、当時は見知った面影に会いたい一心だった。
周囲を見上げても、同じように夜空を見上げる人々の顎が見えるばかり。誰も八木沢のことなど見ていなかった。それが怖かった。自分が透明人間になってしまっていて、誰にも姿が見えないとしたら。こんなに必死に探している母親や幼なじみを見つけても、自分に気づいてもらえなかったなら。そんなありえない滑稽な考えが浮かんできて、八木沢は必死で首を振った。
だが、ありえないと思いながらも、もしかしたらと頭の中では戦いが続いていた。そんなことはない、そんなことはないのだ、と自分に言い聞かせながら、八木沢は人ごみの中をさまよった。ドン、ドン、と花火の打ち上がる音に、母親を呼ぶ自分の声がかき消されて焦燥が募る。
一緒に来たはずの母親とも、弟妹とも、幼なじみの彼とも、もう二度と会えないのかもしれない、と弱気が心を挫く。それでも、泣いてしまえば、本当にこのままひとりぼっちになってしまうような気がして歯を食いしばる。
呼吸がうまくできない。
喉が干上がる。
涙がにじんだ。
声を張り上げるために、口を開く。
その耳に、声が届いた。
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2010.10.03‖offline