ひめひび2/明良×菜々美
3話目
3話目
あれから一週間。
表面上は何事もなく日々を送っている。ほんの少し明良と一緒にいる時間が減って、ほんの少し明良と気まずくなっただけだ。他には何もない。いつもどおり明良は優しいし、菜々美を気遣ってくれる。けれど、ほんの少しの積み重ねは大きな違いとなって、菜々美に暗い影を落としていた。
明良の誤解を解きたい。けれどそのためには、あのことを告白しなければいけない。それは常に菜々美の頭を悩ませている。
明良には知られたくないのに、それを言いだせないかぎりは、今のままの状態がずっと続くのだろうことは目に見えていた。わかってはいる。わかっていても、告げるだけの勇気がない。
あれも嫌、これも嫌と子どものようで、そんな自分も嫌になる。
タマネギを刻んでいた手を止めて、菜々美はリビングを眺めた。ソファから飛び出た明良の後頭部を見つめる。
以前なら、菜々美が料理をしていれば何を作っているんだとか、手伝おうかとか、笑顔で聞いてきてくれたのに、今はテレビをつけてその画面に見入っている。夕方のニュースは、世界情勢だとか株価がどうとか、難しい言葉を吐き出していた。それを本当に見ているのかどうかも、菜々美にはわからない。
明良が菜々美との距離を置こうとしているのは明白だった。今だってこうして学校から帰ってきてくれているし、リビングにいてくれているけれど、その目は菜々美に向いていない。
苦しくなってきて、菜々美はタマネギを刻む手を再開させた。目の奥が熱くて、涙がこぼれそうだった。タマネギを刻んでいれば涙の理由もごまかせるかもしれないと、浅はかにも考える。
じんわりと視界が歪んだ。手の甲に熱い雫が落ちて、菜々美は瞬きを繰り返す。それでも、習慣になっている手が止まらなかった。あ、と思ったときには既に遅く、菜々美は包丁を取り落とす。
「………痛ッ」
硬い音を立てて包丁がシンクに落ちる。タマネギの汁が染みて、切れた指先が痛い。慌てて水で洗い流していると、異変に気づいた明良がキッチンに姿をあらわした。
「菜々美? どうしたんだ?」
「ちょっと切っただけ。大丈夫だから…」
笑顔を見せようとして失敗した。視界は歪んだまま。涙が頬を滑り落ちる。
「そんなに深く切ったのか? お兄ちゃんに診せてみなさい」
明良が腕を伸ばして、菜々美の手を取る。たったそれだけで、身体がかぁっと熱くなる。どきどきと脈打つ心臓に、菜々美は混乱して手を振りほどこうとするのに、手を掴んだ明良の力は強い。
「大丈夫だから! これは、その、そうじゃなくて……」
指よりも胸が痛い。しどろもどろな言葉に、菜々美は項垂れる。恥ずかしさといたたまれなさと、いろいろな感情がぐちゃぐちゃで、何をどう言っていいのかわからない。
そんな菜々美に、明良は苛立ったように菜々美を呼んだ。
「菜々美!」
「………ッ!」
息をのんで顔を上げると、そこには気まずそうな表情の明良がいる。ぐっと奥歯を噛み締めた菜々美に、明良は一瞬躊躇ったあとに口を開いた。その顔は菜々美を心配する明良の顔で、菜々美の胸はぎゅっと絞られたように痛む。
「……こっちに来て、お兄ちゃんに診せなさい。お兄ちゃんが心配だから」
表情と同じように心配そうに優しく言われれば、菜々美にはこくりと頷く他なかった。
「菜々美らしくないな、こんな怪我」
救急箱から消毒液を取り出して、それを脱脂綿に染みこませながら明良は言った。殊更軽く聞こえるのは、明良の心遣いだろう。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、菜々美はぽつりと呟く。
「……………ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃないんだが…」
悄然とする菜々美に苦笑して、明良は傷口に当てていた脱脂綿をポイとゴミ箱に放り込む。器用な指が絆創膏の剥離紙をペリペリと剥がしていくのに、菜々美の胸は何故かときめく。手を取られれば脈が乱れ、優しく絆創膏が巻き付けられれば、いつになく早い速度で心臓が鼓動を打つ。絆創膏を貼り終えた明良が、大事そうに指を撫でるのに至っては、心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかというほどだった。
顔だけではなく、全身が熱くてたまらない。苦しくなって俯けば、救急箱を片付けていた明良が優しく告げる。
「夕飯の用意はお兄ちゃんに任せておきなさい。何を作る気だったんだ?」
「……………」
何気ない問いに答えられず、菜々美はぎゅっとスカートを握りしめる。
心苦しいのは、変わらずに優しい明良に対して負い目があるからだ。秘密を持ったのは菜々美で、しかもその秘密の当事者は明良である。自分の行動理由がわからなくて、ただ黙っているという選択肢しか選べない自分が嫌だ。
握りしめた手の甲に、また涙が落ちて肩を震わせる。
「菜々美?」
「………ごめ…なさ……」
心配そうな明良に謝ることしかできない自分が、無力で不甲斐くて悔しい。
菜々美が絞り出した謝罪に、明良は大きく息を吐いた。そして菜々美の前に膝をつき、涙の落ちた手を、菜々美より一回り大きいそれで優しく包んで、明良は泣き濡れた菜々美の顔を覗きこむ。
「…なあ、菜々美。お兄ちゃんに言えないことができるのは、悪いことじゃないんだ。寧ろ、……そうだな。多分いいことなんだと思う。けど、お前がそれで苦しいなら、いつだって話してくれて構わない。言いづらくても、吐き出すだけで楽になることもあるだろう?」
諭すような優しい響きに、菜々美の涙腺は壊れてしまって涙が止まらない。明良は激しく泣き出してしまった菜々美の涙を拭い、頭を撫でて慰めようとしてくれる。その仕草も、一層菜々美の涙を誘うだけだ。
「俺はいつだってお前の味方だから」
理由もなく、ただ妹だからと盲目的に信じてくれる明良の言葉に、菜々美は首を振った。隠しごとは明良が考えているようなものではないし、自分は明良が信じているような『いい子』ではない。妄信的な明良の言葉が痛くてつらい。苦しくて、菜々美は喘ぐ。
「わ、私、お兄ちゃ、が…思ってるよ、な……子じゃ、な……」
しゃくり上げながら、菜々美は言葉を吐き出す。聞きづらく途切れる音を、明良はきっと聞き取ってくれるだろうと思いながら、菜々美はひくつく喉で言葉を紡ぐ。
頭の中は、明良のことでいっぱいだ。ごめんなさいという気持ちと、どうして気づいてくれないのという苛立ち。何に気づいてほしいのか、自分でもわからないのに、言葉だけは溢れていく。
「わ、悪い子、だもん。だっ…て、お兄ちゃんだって、知って、る…のに……」
「菜々美…?」
不思議そうな明良に、菜々美はゆるゆると首を振る。
どうして、明良にあんなことをしてしまったのか。兄だと知っていても、身体が動いてしまったその理由を、言葉になってから頭が考える。
「お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんなのに……」
いらないものを削ぎ落として残るのは、明良への想いだけだ。ただ、明良を想う、その気持ちだけ。
「お兄ちゃんが、好きなの」
言葉に、一瞬明良は目を瞠る。そして次の瞬間には、嬉しそうに微笑んでみせる。
「……ああ、俺も菜々美が大好きだよ」
「違う!」
あっさりと頷いた明良に、菜々美は激しい否定を返す。
違う。自分が明良を好きだと言うのは、兄と妹の、家族の愛情で好きと言っているのではない。それがわかって、菜々美はまた涙を落とす。
「お兄ちゃんの好きと、私の好きは、違うよ……」
「……どう違うんだ。少し落ち着きなさい」
「だって!」
いやいやをするように、身体をよじる。涙をぼろぼろと落としながら、菜々美は自分が子どものころに戻ってしまったような錯覚を起こす。
明良が遠い大学へ行ってしまうと知ったとき。あのときも、こうやって明良を困らせた。涙を止めてくれようとしたのは、あのときも今も目の前にいる明良だ。あのときも今も、一番大切な人。
「私、お兄ちゃんにキスしたの」
「…………………は?」
告げれば、これ以上ないという驚きに明良の目が見開かれる。
口にしてしまえば、たったこれだけのこと。隠したかったのは、この行為にいたる感情だ。菜々美を突き動かしたのは恋。血の繋がった実の兄だと知っている明良に向けるには、不毛で異常で不健全な感情だったから。
明良を困らせると、そうわかっていたから。
だから身体が動いてしまった理由を知りたくなかったのだ、と言葉にしてから菜々美は気づいた。
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2009.07.31up
もうちょっと続きます。
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2009.07.31‖TAKUYO